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消えない記憶
片田舎のJR駅前商店街のはずれには、小さな小学校があった。小学校には、普通学級が各学年三クラスあり、支援学級が一クラスあった。支援学級の教室は、小学校の校舎の片隅にあり、普通学級の生徒の声も届かなかった。木々のそよぎが、聞こえるのみだった。
アナとカズは、支援学級の生徒だった。
アナは、小学六年生で、ダウン症だった。ダウン症児の五十%は、心臓病の合併症があるが、アナには、大きな合併症はなかった。アナは、ダウン症児らしく、少し背が低く、メタボだった。アナは、勉強がやや苦手で、小学六年生になっても、一桁の足し算は、好きだったが、掛け算は、できなかった。アナの父は、警察官をしていた。
カズも、小学六年生で、発達障害と軽度の知的障害があった。コミュニケーションにやや難があったが、慣れれば、問題なかった。カズは、ひょろっと背が高く、なかなかのイケメンだった。発達障害と言うことで、落ち着きがなく、授業中にふらふらと席を立ってしまうことがあった。そんな時は、アナが、甲斐甲斐しくカズを席に座らせた。カズの父は、脳外科医で、郊外の研究所に勤めていた。
支援学級の生徒は、アナとカズの二人きりだった。
小学六年生が、遠足で、電車に乗って、隣町の水族館に行ったことがあった。その時、アナは、駅構内の券売機の前で、仁王立ちしていた。
「どうした、アナ?」
カズが、アナに聞いた。
「切符の買い方が分からない」
アナが、白状した。切符を買うには、駅名、路線図、時刻表、時計の読み方など、色んなハードルがあった。全て、アナには、難しいことだった。
「教えてあげるよ」
カズが、優しく切符の買い方を教えた。
「ありがと!」
アナが、可愛くお礼を言った。
「良いってことよ」
カズが、笑った。カズは、アナにとって、とても頼りになる盟友だった。
支援学級の授業参観が行われた。アナの母とカズの母が、支援学級の教室に来てくれた。
「さあ、授業を始めましょうね!」
支援学級の先生が、元気よく言った。
「何の授業?」
アナが、質問した。
「算数よ」
「え〜、国語が良い」
「好きなのやるわけじゃないの」
「へ〜い」
「ハッハハハハ」
「それじゃ、5+7は?」
「8!」
アナが、答えた。
「適当に答えないの。先週もやったでしょ」
「ハッハハハハ」
「そんなの記憶にないよ」
「アナは、すぐ忘れるんだから」
「そんな記憶、一日寝れば、忘れるわ」
「全く!」
「ハッハハハハ」
事実、アナは、気持ちが良いほど、授業の内容を忘れていた。しかし、根が憎めない子なので、授業は、楽しく進行していた。アナの母とカズの母も、楽しく授業を参観していた。
「アナは、そんなに忘れて、何を記憶しているの?」
支援学級の先生が、軽い気持ちで聞いた。
「お父さんのこと」
アナが、きっぱりと言った。アナは、アナの父のことを決して忘れなかった。それは、アナの意地だった。アナの父は、アナの記憶の中で、確かに生きていた。
「そっか……」
支援学級の先生が、言葉を失った。
支援学級の教室が、静かになった。そして、暖かい風が、教室に吹き込んだ。とても心地良かった。
放課後、人気の少ない支援学級の教室裏で、カズが、数人の普通学級の生徒にいじめられていた。
「この障害児! うぜえんだよ!」
いじめっ子が、カズに罵声を浴びせて、カズをど突いた。
「痛い!」
カズが、尻餅をついた。
「何をしている!」
助っ人が、現れた。
アナだった。
アナが、勇敢にも、普通学級の生徒に向かって行った。
「アナ!来るな!」
カズが、叫んだ。アナを危険な目に遭わせるわけにはいかない。
「そうはいかない」
アナが、吠えた。アナとカズが、数人のいじめっ子と取っ組み合いの喧嘩になった。アナとカズは、完全に劣勢だった。
「アナに触れるな!」
カズが、アナに向かういじめっ子を片っ端から引き離していた。
「何してるの!」
支援学級の先生が、仲裁に入った。
「やべ、先生が来たぞ」
いじめっ子たちは、その場から、逃げようとした。
「こんなことして、可哀想でしょ! トラウマは、一生記憶に残るのよ」
支援学級の先生が、いじめっ子の頭を叩いて、叱った。
「逃げろ!」
いじめっ子は、逃げ去った。
「消えない記憶があるのよ!」
先生が、走り去るいじめっ子に向けて、大きな声で言った。
「アナ、大丈夫だったか?」
カズが、真っ先にアナの心配をした。
「うん、大丈夫」
アナが、健気に笑った。
アナとカズは、阿吽の呼吸だった。実は、アナとカズは、お付き合いをしていて、時々、商店街の公園で、デートもする中なのだ。
アナには、三つ年下の弟がいた。
アナと弟が、アナの父と母に連れられて、近所の海に行った。海水浴シーズンではなかったが、アナと弟が、海岸線を走り回って、はしゃいだ。
「アナ、あまり走るなよ!」
アナの父が、アナの心配をした。
「お父さんも、おいでよ〜」
「今、行くよ〜」
アナの父も、アナと弟を追いかけて、海岸線を走った。
「海、入っちゃダメ?」
アナが、上目使いで、アナの父に懇願した。
「どこで、そんな表情を覚えるんだ?」
「ね、良いでしょ?」
「仕方ないな」
「やった!」
アナが、服を着たまま、海の中に入って行った。アナの弟も、それに続いた。
「あまり深いところまで行くなよ」
アナの父が、心配して言った。
「はいよ」
アナが、適当な返事をした。
「ぐふっ」
アナの弟が、少しだけ波に飲まれて、溺れそうになった。
「大丈夫か!」
すかさず、アナの父が、海に飛び込み、アナの弟を救った。
「ありがとう……びっくりした」
アナの弟が、安心して、泣き出した。
「さすが、お父さん。頼りになる〜」
アナが、呑気に言った。
「ハッハハハハ」
アナの家族が、大きく笑った。
そんな折、悲劇が起きた。
小学校の近くの小さな空き倉庫で、殺人事件が発生したのだ。現場には、多数のパトカーや救急車などが、駆け付けて、一時、騒然となった。倉庫の中で、銃撃戦があったそうで、一般人が銃殺され、銃撃をした容疑者も射殺された。アナとカズも、支援学級の教室から、行き交うパトカーや救急車などを見ていた。
その時、アナの母が、支援学級に駆け込んで来た。
「アナ、来なさい!」
アナの母が、血相を変えて、アナを迎えに来た。
「どこへ行くの?」
「空き倉庫よ。お父さんが、撃たれた」
「え! お父さんが?」
アナが、一報を受けて、驚いた。
「さ、お父さんに会いに行きましょう」
アナの母が、アナの手を引いて、空き倉庫のアナの父の亡骸に会いに向かった。
現場では、白い布で覆われた二人の遺体が、担架に乗せられて、運び出されていた。駆けつけた警察官が、恭しく、手を合わせて見送っていた。
アナの父は、警察官で、この殺人事件の容疑者だった。アナの父は、無抵抗の被害者を銃殺したということで、やむなく射殺されたという。
「お父さんはそんなことしない!」
アナは、泣き叫んだ。
しかし、アナの父は、何も言ってくれなかった。
「お母さんも信じてる」
アナの母も、力なく言った。
アナは、父の無念を晴らしたいと願った。
アナの父は、警察表彰などを受けるタイプではなかったが、地域の住民には信頼される実直な警察官だった。子供たちの人望も厚く、地域の非行防止には一役買っていた。アナが生まれて、障害にも造詣が深くなり、福祉施設の職員や入所者からも人気があった。
「一介の警察官ですが、どうせやるなら地域のために邁進したい」
アナの父が、生前、よく言っていた。
「こんなに早く亡くなったんじゃ、地域のためになれないじゃない」
アナの母が、涙ながらに訴えた。
アナの父の葬式が、執り行われた。アナの父の遺体は、検視の為、葬式の会場には、なかった。
「あのような事をする人じゃありません」
アナの母が、葬式の間中、涙を流していた。
「信じているから」
アナも、気丈に言った。
「お父さん……」
アナの弟が、泣きじゃくっていた。
アナの弟が、小学校の校舎の裏で、数人のクラスメイトに囲まれていた。
「人殺しの子供」
弟が、クラスメイトにいじめられた。アナの父が、容疑者になって、世間の目が、一気に変わってしまった。
「何してるの!」
アナが、すかさず、助太刀に入った。そして、いじめっ子を追い払った。
「気にするなよ」
アナが、弟に優しく言った。弟は、悔しそうに泣いていた。
いじめは、それでも、続いていた。
時には、カズも、いじめっ子の退治を手伝ってくれた。
「ありがとう、カズ」
アナが、カズに言った。
「ひでえことしやがる」
カズが、言った。
弟は、ずっと泣いていた。
アナは、そのいじめの様子を通して、「消えない記憶があるのよ!」と言う支援学級の先生の言葉を思い出していた。
お父さんの記憶、消えてないんじゃないかーー?
アナは、それをカズに相談した。カズの父は、奇しくも脳外科医だった。アナは、カズの父と話をして、「長期記憶」と「フラッシュバック」という言葉を学んだ。数分から数十分程度保持される記憶を短期記憶と言うが、さらに海馬を通じて、永続的な貯蔵庫へ記憶されるものを長期記憶と言う。フラッシュバックとは、強いトラウマ体験を受けた場合に、その記憶が、突然鮮明に思い出されたり、夢に見たりする現象である。
つまり、アナは、アナの父が亡くなっても、フラッシュバックのような強い記憶が、長期記憶に深く残っているのではないか、そう考えたのだ。
「アナが、亡くなっても、お父さんの記憶は残っているんじゃないかと言うんだ」
カズが、カズの父に、伝えた。
「考えても見なかった」
カズの父は、驚いて、答えた。
そして、すぐにアナの父の遺体のエンバーミングを要請した。
エンバーミングとは、遺体の危険な感染を防ぐために、遺体の消毒・殺菌を行う「消毒・殺菌」と死後すぐに体内から腐敗が進むので、薬剤で腐敗防止を行う「腐敗の防止」などの処理をすることである。エンバーミング処置を行われた遺体は長期の保存が可能で、IFSA(日本遺体衛生保全協会)では自主基準により、火葬埋葬までの日数を五十日以内と定めている。
つまり、死後五十日以内に、アナの父の脳に残された「消えない記憶」を探さなくてはならなかった。
手元に遺体のないまま、アナの父の初七日の法要が執り行われた。アナの母が、喪主を務めた。多くの参列者が来てくれた。その中には、多くの警察官や検察官がいた。みんな、「この度は……」と、言葉少なに焼香をして帰って行った。皆、容疑者であることに、躊躇しているようだった。アナの父の関係者も、アナの母も、素直に故人を悼む状態ではなかった。
「ありがとうございます」
アナの母が、気丈に参列者に頭を下げていた。
アナとカズも参列していた。
「まだ信じられない」
アナが、涙ながらに呟いた。
初七日が終わった日の夜、アナの母は、自宅で、ずっと一人で泣いていた。
「お母さん、大丈夫?」
アナが、母を気遣った。
「ごめんね、大丈夫よ」
アナの母は、涙を拭った。
「絶対に真実を突き止めてやる」
アナが、意気込んだ。
「僕、まだいじめられるの?」
アナの弟が、起きて来て、涙を見せた。
「そんなことはさせない」
アナが、涙をこらえつつ、弟を抱き、力強く言った。
アナは、正直、やりきれない思いだった。アナの父は、悪者として、世間から、厳しい目で見られていた。アナは、それが、悔しかった。だから、真相究明を願った。弟や母の為、そして、何より父の為にーー。
カズの父は、アナとカズの進言も考慮しつつ、「消えない記憶」を引き出す装置を開発することに専念した。カズの父の同僚も、大いに手伝ってくれた。皆、アナの父の無念を晴らす為、必死だった。
「記憶というのは、視神経などから神経電流が流れ、脳の貯蔵庫に記憶されるんだ」
カズの父が、アナとカズに言った。
「だったら、その逆にして、貯蔵庫から神経電流を取り出せば、目に見たものが見れるってことですか?」
アナが、進言した。
「そうかもしれない……」
「すみません、急いでもらっていいですか?」
アナが、カズの父に申し訳なさそうに言った。
「ベストを尽くすよ」
カズの父は、言葉を濁した。正直、それほど簡単でないことは、容易に想像がついた。
アナとカズも、手を拱いていた訳ではなかった。二人は、市立図書館に行って、脳と記憶のことを熱心に勉強していた。
「やっぱり難しいわ」
アナが、音を上げた。
「諦めるな、お父さんの為なんだから」
「そうね、諦めたら、そこでお終いね」
アナとカズは、放課後や休日は、いつも図書館に入り浸り、本を借りて、学校でも熟読した。アナとカズは、真剣そのものだった。その姿を見て、カズの父も発奮した。
そうこうするうちに、四七日忌の日(死後二十八日目)が来た。
アナの家では、引き続き、父の遺体のないまま、法要を済ませた。
「時間がない」
アナが、焦燥感を露わにした。
「僕らも研究に専念しよう」
カズが、言った。
「そうだね」
アナが、答えた。
そうして、アナとカズも、研究に乗り出した。
アナ、カズ、カズの父たちは、必死に研究を進めた。
カズの父は、アナの父の脳の貯蔵庫付近に電極を取り付け、神経電流を受け取り、画像をモニターに映し出す研究をしていた。
「亡くなっていると、神経電流も弱いな……」
カズの父が、冷静に分析していた。
カズの父は、神経電流を受け取るシステムの感度を最大限まで上げて、何とか、画像をモニターに映し出した。
「何が映っているのか、分からないわ……」
アナが、悲しそうに言った。
「これ以上、感度を上げても、ノイズが大きくなってしまう」
「何とかできないのかしら」
その研究と同時に、カズの父が、カズの頭に無数の電極を取り付け、カズに色々なことを考えてもらった。そして、その時のモニターの映像を確認する作業を繰り返した。
「この研究は、何ですか?」
アナが、カズの父に質問した。
「記憶とモニターの映像の整合性を確かめるんだ」
「なるほど」
「良かった。整合性は、取れている」
カズの父が、安堵した。
事実、カズの考えていることとモニターの映像は、整合性があった。
しかし、求める映像を得るには、まだまだ時間がかかりそうだった。
「時間がない」
アナが、焦燥していた。
「どうしてこんなに時間がかかるの!」
アナが、少しきつい言葉を吐いた。
「電極の位置、電流の増幅器のレベル、画像処理のソフト開発など、対応すべき事項は、山ほどあるんだ」
カズの父が、申し訳なさそうに答えた。
「アナ、冷静になれ。策はあるはずだ」
カズが、アナを落ち着かせた。
「ごめんなさい、私……」
アナが、謝った。カズは、アナの気持ちが、痛いほど分かった。だから、必死に研究に邁進した。
アナが、カズの父の研究所を訪問して、研究の合間に、父の亡骸に対峙した。
「お父さん!」
アナが、感極まって、アナの父にすがりついた。
「アナ……」
カズが、アナの肩に手を回して、慰めた。
「絶対に、無念を晴らすから」
アナが、泣きながら、しかし、きっぱりと言った。
「そうだ、その意気だ」
(救ってやらねば……)
カズの父が、アナの様子を見て、気持ちを奮い起こした。
残り十日を切った頃、死んだマウスの脳に直接電極を埋め込む動物実験を試みた。
「どうも、電極を脳に埋め込まないとうまくいかないようだ」
カズの父が、言った。
「私の脳に電極を埋め込んでください」
アナが、進言した。アナは、アナの父の為、真剣だった。
「いや、僕の脳だ」
カズも、言った。
「それはできない」
カズの父が、二人を諌めた。
「もう時間がないんだ!」
アナが、叫んだ。それほど、アナは、切迫していた。
「どうしても、無実を証明するんだ」
アナが、涙を流した。
「アナ……」
カズが、アナの頭を撫でた。
カズの父は、アナとカズの姿に背中を押された。
「一か八かで、アナのお父さんの脳に電極を埋め込もう」
カズの父が、覚悟を決めた。
アナが、自宅に戻って、アナの母と対面した。
「お母さん、お父さんの脳に電極を埋め込んでいい?」
アナが、真剣な顔をして、アナの母に聞いた。
「アナの希望なの?」
「そう……」
アナは、正直言って、上手くいく確信がなかった。アナの母は、それを見抜いていた。
「じゃ、そうしなさい。お父さんも、アナの意思なら本望よ」
しかし、アナの母は、許可を出した。アナを信じてのことだった。
「ありがとう」
それから、実際に、アナの父の遺体の脳に、電極を埋め込んだ。
「お父さん、お願い」
アナが、アナの父に祈った。
「記憶の映像化なんてことが本当に可能なんだろうか」
カズの父が、改めて、思案していた。
しかし、それは、杞憂に過ぎなかった。
可能だったのだ。
特例で、アナの父の脳に電極を埋め込んだところ、断片的ではあるが、脳の中の「消えない記憶」を、モニターに映し出すことに成功した。音声も聞こえた。まるで、初めてテレビが誕生した時のような感動だった。いや、それ以上か。
「す、すごいことができた」
カズの父が、興奮した。それは、十分、事件などの証拠として活用することができる代物だった。
「間に合った! これで無実を証明できる」
アナが、歓声をあげた。
「よかったね、アナ」
カズも、喜んだ。
四十九日の法要のまさにその日の出来事だった。
アナの母は、四十九日の法要の最中、その報告を受けた。
「良かった。貴方、疑いが晴れますよ」
アナの母が、アナの父の遺影に報告をした。
法要の参列者が、皆、歓喜に沸いた。それほど、記憶の映像化は、朗報だった。
「無実を証明するからね」
アナが、父の遺影に向かって、手を合わせて、祈った。
カズの父が、エンバーミングの延長を申請し、超法規的措置として、許可された。
モニターには、死者の最後に見ていた光景、長期記憶、フラッシュバック、そう言ったものが、うっすらと映し出された。アナの父の脳内の「消えない記憶」を、映像で振り返った。
しかし、あの殺人事件のシーンで、不可解なことが起きた。記憶の中に、容疑者であるアナの父が、被害者を撃ったシーンが残されていなかったのだ。
「そんな重大な記憶が残っていないわけがない」
カズの父が、呟いた。
そして、検察の捜査が、「消えない記憶」にも及んだ。
「少なくとも、容疑者が、被害者を銃殺したという証拠はなかった。それどころか、銃殺していないと考える方が、自然だということが分かりました」
カズの父が、事件の真相を激白した。
「どういうことかね?」
検察官が、厳しく聞いた。
「コンピューターのフラッシュ・メモリーと同じです。電源を切っても内容が記憶される不揮発性の半導体メモリーです。人間の脳も、そうした記憶の貯蔵庫があるんです。今回、そこから消えない記憶を取り出すことに成功したんです」
カズの父が、熱弁した。
「そんなことがあるのか……?」
検察の追求は、ひとまず、収まった。
この記憶の貯蔵庫が、事件の鍵を握っていた。
「ひと段落ついたね。これで安心だ」
カズが、アナに呟いた。
アナが、
「昔ね、家族で、北海道旅行に行ったことがあったの。飛行機で行ったんだけど、現地の電車の時刻表をよく確認していなかったから、帰りの飛行機の出発ギリギリに空港に着いて。国際線の方に行ったりして、あたふたしちゃった。それで、飛行機に駆け込み搭乗よ。よく間に合ったわ。お父さん、笑って、スリル満点って言ったの。そうしたら、キャビンアテンダントさんに叱られて、謝ってた……そんな記憶が消えていない。消えないでほしい。全ての記憶を守りたい」
と、涙を流した。
しかし、数日後、事件は、急展開した。
「容疑者が、被害者を銃殺するシーンが記憶に残っていた」
検察官が、そう言ったのだ。
「そんな記憶はなかったはずだ」
カズの父が、反論した。
「実際に存在しているんですよ」
検察官が、言った。
「そんなはずはない」
それから、カズの父が、アナの父の記憶の貯蔵庫を確認したら、鮮明に、銃殺シーンが映し出された。
「こんなことって……」
カズの父が、悲嘆した。
「お父さんは何を見たんだ!」
アナが、大声で叫んだ。
検察の捜査が、終わり、アナ、カズ、カズの父が、途方に暮れていた。
「後から貯蔵庫に入れたんじゃ……?」
アナが、言い出した。
「どうやって……?」
カズが、アナに質問した。
「何かの映像を作って、脳にそれを見せて、記憶の貯蔵庫に埋め込む……」
「そんなことが……?」
カズの父が、それを試して見た。
まず、記憶の貯蔵庫に、直接電気刺激を送り、映像を埋め込むことを試みた。
「これは、今の技術では、できないな……」
カズの父が、分析した。電気刺激の送信技術のハードルが、高すぎた。脳への刺激は、もっと繊細な方法でないと不可能だった。
次に、アナの父の亡骸の瞼を開けて、眼球に映像を見せて、視神経の神経電流を介して、脳に記憶させた。
「さて、どうなるか……?」
眼球に映像を見せて、しばらくして、脳の記憶を確かめた。眼球に何の反応もなかったので、半ば諦めていた。
しかし、「消えない記憶」は、確かにモニターに映った。
アナの父の視神経も脳神経も、まだ働いていた。人は、亡くなっても、一定時間、神経は、生きているのだ。さらに、神経を制御するエネルギーも尽きてはいなかった。奇跡と言うに相応しかった。
「で……できた……視神経も、生きているんだ……」
カズの父が、驚嘆した。
そして、案の定、後で記憶を埋め込むことができたのである。
「やられた……証拠がひっくり返ってしまった」
カズの父が、途方に暮れてしまった。
しかし、アナは諦めなかった。
「記憶した時期はわからないんですか?」
アナが、カズの父に聞いた。
「そうか、何か違いがあるはずだ」
カズの父が、研究を始めた。色々な記憶を遡って見て、その特徴を掴んで行った。
「こ、これは……ノイズが……!」
カズの父は、アナの父の古い記憶には、ノイズが多いことを突き止めた。それを分析すると、記憶の貯蔵庫の劣化状態から、記憶の保存時期がわかった。つまり、古い記憶は、ドット落ちのような劣化が見られるのだ。そこから、貯蔵庫に入った時期を特定した。
「これなら、事件の日の記憶が、全て、把握できる!」
さらに、カズの父は、曖昧な記憶や絶え絶えの記憶を時系列にまとめる技法を開発した。それらをつなぎ合わせて、事件の真相を突き止めた。
また、それにより、映像の解析方法も、改良されて、映像を、より鮮明に見ることができるようになった。
そして、事件の真相が、分かった。
カズの父が、
「容疑者であるアナの父が銃殺されたのは、被害者が殺される前だったんです。意識が絶え絶えの中、見ていたんです。まさに、あの検察官が、被害者を銃殺するシーンを!」
と、一人の検察官を指差した。それは、アナの父が、意識の遠のく中、必死に目に焼き付けた映像だった。
「さらに解析を進めた結果、あの日、倉庫で癌の特効薬が違法取引されていた。その証拠隠滅のために、あの検察官が、アナの父を銃殺したんです」
カズの父が、言った。
こうして、見事に検察の悪事を暴いた。
真犯人は、検察官だった。
こうして、アナの父の容疑は、晴れた。
「見せたいものがある」
カズの父が、アナを研究所に招き、アナに言った。
「何かしら?」
アナが、興味津々だった。
カズの父は、アナの父の記憶の貯蔵庫の映像をアナに見せた。モニターには、劣化の激しい映像が浮かび上がった。
病院の分娩室で、母が、息んでいた。父が、出産に立ち会っていた。「頑張れ〜」父が、母に声をかけていた。その時、「オギャーオギャー」と、元気よく赤ちゃんが、この世に生を受けた。父と母の歓喜の声が、響いた。しかし、助産師が、「あら、この子……」と言って、赤ちゃんを母に抱かせることなく、検査を受けさせた。母の不安そうな顔が映し出されていた。その後、父と母は、医師から、「ダウン症です……」と、告知され、説明を受けた。母の泣き顔が映し出され、父の泣き声も聞こえた。父が、「ゆっくりでもいい、手塩にかけて育てよう」と、母に言った。「そうね」と、母が、優しく答えた。
それは、アナの誕生から告知の時の記憶だった。
「お父さん、お母さん……」
アナが、声を詰まらせた。
こうして、アナは、未知の記憶を知ることになった。アナの父の「消えない記憶」には、アナの知らない事実も残っていたのだ。
「強い記憶は、全てアナに関することばかり」
カズの父が、アナに言った。
「お父さん……」
アナが、おいおい泣いた。
そして、アナの父は、銃撃され、亡くなる直前もアナのことを考えていた。
「アナ……良い子に育て」
アナの父は、そう言って、息を引き取った。
「お父さんに何か伝えたいことはあるかい?」
カズの父が、アナに尋ねた。
「あります」
アナが、答えた。
「お父さんの記憶の中にメッセージを残せるから……」
カズの父が、アナに促した。
「無念晴らしたよ。良い子になるよ。好きな子ができたよ。結婚するかも……」
アナが、父の記憶の貯蔵庫にメッセージを埋め込んだ。アナは、それだけ言って、あとは泣き崩れた。アナの父の記憶の中に、アナの声を残せたのだ。カズは、少しだけ赤面して、アナの肩を抱いた。
アナの父は、無言の帰宅をした。
「綺麗な顔をして……」
アナの母が、アナの父を見て、優しく言った。アナの父は、エンバーミングのおかげで、ほとんど傷んでいなかった。今すぐ、「ただいま」とでも言って、笑顔を見せそうだった。
アナの父は、荼毘に付された。
「どうして、あそこまで出来たんだい?」
火葬の煙を見ながら、カズの父が、アナに聞いた。事実、アナの言動は、神懸かっていた。
「父の無念を晴らしたかったので……それに、何かに導かれているようでした」
アナが、しみじみと答えた。
「お父さんが導いてくれたのかも知れないね」
「そうかもしれません」
「カズは?」
カズの父が、カズに尋ねた。
「盟友の危機だからです」
「友情以上、か」
「そうだね」
カズが、赤面した。
「障害児は、信じる力が健常より強いのかな?」
カズの父が、しみじみと言った。
事実、障害児には、こうした強固な絆がある。障害児の素直で、健気なところが、奇跡を呼び起こす。
不道徳かもしれないが、アナたちが、一つだけ、書き換えた記憶があった。アナの弟の記憶からいじめの記憶を消したのだ。
「記憶は自分では消せないから」
アナが、優しく微笑んだ。
現在、「消えない記憶」を呼び覚ます技術は、一般に開放されていない。生きている人の記憶も簡単に書き換えることができたからだ。社会活動の根幹が揺らぐというのがその理由である。つまり、人類の「記憶から消された」技術なのである。
了
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