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調律師たちのピアノコンクール
プロローグ
調律師たちのピアノコンクールの当日を迎えた。会場は、県民ホールで、ステージ上には、一台のピアノとオーケストラが、鎮座していた。観客は二百人ほどだった。参加者は、三十名だった。
アナとカズが、会場の前方の席に並んで座って、演奏を聴くことにした。響子は、会場の後方の席に座った。弦太郎の父も、端の方の席に座った。
開会の挨拶などがあり、早速演奏が始まった。
アナの父が、出番を迎えた。
「少しでもアナの足しになれば……」アナの父の演奏に熱が入った。
「そうか、薬指がないから、これはお父さんの音なんだ。誰にも真似のできない個性なんだ。障害なんて塞ぎ込んでいないで、前に出てみれば良いんだ……」アナは、アナの父の意図するところにようやく辿り着いた。
続いて、カズの父が、演奏を始めた。
「なんだか、しっとりとしていて気持ちの良い曲だね」アナが、感想を漏らした。
「多分、音楽セラピーの影響だと思う」カズが、答えた。
「なるほど」アナが、納得した。
カズの父は、前半は、音楽セラピーを演奏に生かしていたが、途中から巨人の星の「ゆけゆけ飛雄馬」の弾き語りをおっ始めた。
「あーあ、歌い出しちゃったよ」アナの父が、呆れて口をぽかんと開けた。
「ピアノコンクールで歌う人、初めて見た」アナも、呆れた。
「これも、音楽セラピーの影響だと思う」カズが、説明して、カズの父の演奏に引き込まれていった。
「……」アナは、返す言葉がなかった。
カズの父の弾き語りが終わった。
「カズ、ど根性、見せてくれ!」カズの父が、最後に叫んだ。
「ハッハハハハ」会場は、爆笑の渦だった。
「お父さ~ん! お父さ~ん!」カズは、涙ながらにカズの父に声援を送った。カズの父のメッセージは、カズの心には届いていたのだ。
「この親子……」アナが、他人のフリをした。
しばらくして、響子の母の演奏になった。
「これまで学んだことを全て出し尽くす!」響子の母が、気合を入れまくった。
響子の母の演奏は、ピリピリしてしまっていた。響子の母も、それを自認していたので、しかめっ面になってしまった。
「あ~、お母さん、空回りしちゃってる」響子が、響子の母の心配をした。
最後に、弦太郎の出番になった。
「弦太郎、無理するなよ」弦太郎の父が、客席で祈った。
「不思議な演奏をするのね」アナが、弦太郎の演奏を聴いて、感想を漏らした。弦太郎の演奏は、力みのない澄んだ演奏だった。
しかし、途中、弦太郎が、苦悶の表情を浮かべた。心臓が苦しそうだった。
1
アナとカズは、支援学校の音楽の時間を楽しみにしていた。二人とも、音楽が大好きで、幼い頃から、切磋琢磨していた。
「私、弾きま~す!」アナが、音楽の時間にピアノを弾いた。
「次は、僕だ~!」カズも、それに続いた。
「……」先生が、絶句した。
アナもカズも、お世辞にも、ピアノ演奏が上手いとは言い難かった。それでも、めげずに明るく楽しく音楽の時間を過ごしていた。
「そのうち上手くなるさ」アナが、カズを慰めた。
「お前が言うな」カズが、すかさず突っ込んだ。
「ハッハハハハ」
「これじゃ、お父さんに顔向けできないよ」アナが、元気なく呟いた。
「僕も、お父さんの遺伝子を受け継いでいないのだろうか?」カズも、思い悩んだ。
アナとカズは、都市郊外の支援学校の高等部一年生で、同級生だった。二人のクラスには、他に三人の生徒が在籍していた。アナはダウン症で、カズは発達障害だった。二人とも、軽度の知的障害があった。アナとカズは、幼馴染で、幼稚園の時から、小学校の支援学級、そして、支援学校の中等部も、ずっと同じクラスだった。二人は、家も近く、家族ぐるみの付き合いもあった。
放課後、アナとカズが、いつものように支援学校の教室で談笑していた。
「毎週金曜日に、音楽室から、綺麗な音色が聞こえるね」アナが、カズに声をかけた。
「え、プロの演奏を流しているんじゃないの?」カズが、驚いて聞き返した。
「違うよ。練習したり、同じパートを弾き直したりしているもん……見に行ってみようか?」
アナが、カズの手を引いて、誘った。
「良いけど?」カズが、素直にそれに従った。
アナとカズが、音楽室のドアの小窓を覗くと、演奏者の後姿が、少しだけ見えた。
「男の子だよ」アナが、意外そうにささやいた。
「本当だ。体、大きいね。高等部の三年生くらいかな?」カズが、分析した。
「多分ね……凄いわ」アナが、男の子の演奏に心惹かれた。
「凄いのか?」カズが、怪訝そうにアナに聞いた。
「……」アナは、男の子の演奏に聞き入っていて、返事をしなかった。
♪
ほのぼの調律センターは、駅前の商店街のメイン通りに面した小さな二階建てのビルにあった。一階は、事務室になっており、二階は、ピアノの調律の作業場になっていた。アナの父とカズの父は、調律師で、ほのぼの調律センターに勤めていた。アナの父とカズの父は、日中、顧客の家庭を回って、ピアノの調律をすることを生業としていた。固定客のフォローが主な仕事だったが、時には、飛び込み営業もした。
ある休日、アナの父が、自宅のピアノを調律した。自宅のピアノを調律するのも、仕事のうちだった。
「お父さん、上手く弾けるように調律してよ~!」アナが、アナの父に向かって、わがままを言った。
「そんな無茶なオファーがあるか!」アナの父が、アナを諌めた。
「できないの?」アナが、憎たらしい口調で詰問した。
「調律だけじゃ、良い音楽は生まれない。ピアノは、演奏者と調律師とのコラボレーションだよ」アナの父が、アナを諭した。
「ああ、そうですか」アナは、聞く耳を持っていなかった。
「全く」アナの父が、呆れていたが、どこかアナを憎めなかった。
「すまないな、カズ。ピアノも買ってあげられなくて」カズの父が、カズに謝った。
カズの家には、ピアノがなかった。しかし、三九八〇円で買った電子キーボードがあった。
「良いんだよ」カズが、電子キーボードを演奏しながら、優しく応えた。
「ちょっと貸してみなさい」カズの父が、電子キーボードの蓋を開けて、何やら作業を始めた。
「凄い! 電子キーボードの調律もできるんだね!」カズが、カズの父に尊敬の眼差しを向けた。
「いや、蓋開けて埃とっただけ」カズの父が、開き直って答えた。
「何だよ!」カズが、がっかりした。
「カズ、弾いてみなさい」カズの父が、気を取り直して、カズに促した。
「上手く弾けないや」カズが、少し落ち込んだ。
「最初から上手くなんて弾けないさ」カズの父が、カズに優しく声をかけた。
「お父さん、ごめんね。僕、音楽苦手なんだ」カズが、申し訳なさそうに謝った。
「無理しなくて良いぞ。将来は、何になりたいんだい?」カズの父が、話題を変えた。
「海外で働きたい」カズは、フランスやイタリアで働くことを夢見ていた。
「台湾でも韓国でも、どこでも連れてってやるぞ!」カズの父が、誇らしげに言い放った。
「近いな!」カズが、思わず突っ込みを入れた。
「ハッハハハハ」
カズの家庭には、笑顔が絶えなかった。
ほのぼの調律センターには、アナの父とカズの父の他に、調律師の先輩と部下、それに数名の事務員がいた。先輩は、アナの父とカズの父よりも十五歳年上で、かなりの熟練調律師だった。部下は、女性で、先輩に付いて勉強中。
「これからは、女性調律師も増えていくだろうから、良いお手本になってもらわないと」先輩が、部下にハッパをかけた。
「先輩~、プレッシャーかけないでくださいよ~」部下が、軽く先輩の腕を叩いた。
「本気ですよ」先輩が、真顔で応えた。
「あ……」気まずい雰囲気になってしまった。
部下の娘の響子は、地元の普通高校に通う、高校一年生の健常児で、プロのピアニストを目指していた。
「また音がずれている!」部下が、自宅で響子に厳しい練習をさせていた。
「あ~、できない!」響子が、イラついた。
「休憩にしましょう」部下が、紅茶を入れた。
「はぁ……」響子が、紅茶を飲みながら、ため息をついた。
「先輩の息子さんは、障害児だけど、ピアノが上手いの」部下が、響子を嗜めるように言った。
「障害児に何ができるの?」響子が、それを突っぱねた。響子は、障害に対する理解が全くなかった。
「少し調律しようかしら」部下が、ピアノの調律を始めた。自宅の調律をするのも、勉強のうちだった。
「すぐ弾きたいから」響子が、愛想なく伝えた。
「はいはい」部下が、ピアノの調律をし終えた。
響子が、ピアノを弾いて、早速、
「ママ、また音が暗いよ!」
と、部下に文句を言った。
「響子の腕が足りないんでしょう!」部下も、負けていなかった。
「ひど~い!」響子が、ピアノの鍵盤を叩いて、部下に向かって叫んだ。
「これから、仕事なのよ。遅刻しちゃうから、行くね。しっかり練習するのよ!」
部下が、バタバタと家を出て行った。
「全く!」響子が、渋々ピアノの演奏を続けた。
部下は、その足で、先輩の自宅に行った。
「いらっしゃい」先輩が、部下を招き入れた。
「よろしくお願いします」先輩の息子の弦太郎が、丁寧に頭を下げた。弦太郎は、ダウン症で、支援学校の高等部三年生だった。調律師を目指していた。
「すぐ終わらせますからね」部下が、先輩の家のピアノの調律を始めた。練習がてら、先輩の家のピアノの調律も担当していたのだ。
「ゆっくりで良いですよ」弦太郎が、優しく微笑んだ。
「うん、ありがとう」部下が、調律の道具を広げて、作業に取り掛かった。
部下が、結構長く調律をしていた。
「どうですか?」部下が、調律を終えて、弦太郎の意見を聞いた。
「音が暗いです」
響子に言われたのと全く同じセリフだった。
「……すみません」部下は、ぐぅの音も出なかった。
「そういう場合は、高音部のピッチを少し高めに設定しましょうか」先輩が、アドバイスした。
「分かりました」部下が、早速指示通りに調律した。
弦太郎が、調律後のピアノを弾いて、
「あ、明るくなった」
と、感激した。
「ありがとう。響子さんのピアノはどうですか?」先輩が、優しく聞いた。
「文句ばっかり言っています」部下が、恨み節。
「ハッハハハハ」先輩と弦太郎が、大きく笑った。
「お叱りの言葉をくださるお客様は、貴重ですよ」先輩が、部下を諭した。
「はい……」部下は、納得いかない様子。
それから、部下が、自宅に戻って、ピアノの高音部のピッチを少し高めに設定した。
「あ、明るくなった」響子が、驚いた。
「でしょう」部下が、得意げに微笑んだ。
♪
アナは、心臓病の合併症があった。産まれてすぐに発覚したが、手術をするほどではなく、経過観察を続けていた。一方、アナの父は、生まれつき、左手の薬指がなかった。一種の障害だ。
「アナには、悪いことをした。障害児の気持ちが、少しだけだけど、分かるから辛い」アナの父が、申し訳なさそうに呟いた。
「その苦労が、少しだけだけど、分かるから嬉しい」アナが、満足そうに優しく答えた。
「韻を踏んだね」アナの父が、嬉しそうに突っ込みを入れた。
「ハッハハハハ」アナとアナの父が、揃って笑った。
「お母さん、また遅いの?」アナが、寂しそうに聞いた。
アナの母は、大学病院に勤める女医だった。
「ああ、仕事の後に、何やら研究をしているらしいよ」アナの父が、それとなく答えた。
カズの家では、家族円満の様子が見て取れた。
「お母さんが、担任って、やりにくいなぁ」カズが、ぼやいた。
カズの母は、支援学校の先生で、アナとカズの担任だった。
「なあに、嬉しいくせに」カズの母が、カズに突っ込んだ。
「図星だ~」カズが、大袈裟にリアクションした。
「ハッハハハハ」カズの家族が、大きな声で笑った。
カズの家庭は、至極明るい家庭だった。それもこれも、カズに障害を跳ね除けてもらいたいがためだった。カズの父母は、とても優しく思慮深かった。
弦太郎は、先輩と二人で暮らしていた。
「お母さん……まだ退院できないの?」弦太郎が、寂しそうに先輩に聞いた。
「こればっかりはな……」先輩が、元気なく答えた。
弦太郎の母は、体が弱くて、もう何年も入院していた。
「僕も、働いて家計を支えないと」弦太郎が、覚悟を決めた様子で呟いた。
「まだまだ勉強とピアノに励んで良いぞ」先輩が、弦太郎に優しく告げた。
「そうも言っていられないから」弦太郎も、心臓病の合併症があった。余命何年という訳ではなかったが、心臓発作を起こせば、命はなかった。
「無理しなくて良い」先輩が、弦太郎を諌めた。その目は、真剣だった。
響子は、部下と二人暮らしだった。
「お父さんが、恋しいわぁ」響子は、もう五年以上、響子の父に会っていなかった。響子の父は、海外で音楽の仕事をしていた。
「あんなの、いなくて良いのよ」部下が、吐き捨てた。
「ハッハハハハ」響子と部下が、一緒に笑った。響子の父に関しては、基本的に言いたい放題だった。帰って来ないから。
♪
ある日、先輩と部下が、お客さんの家のピアノの調律をすることになって、お客さんの家の近くの宝石店の前で待ち合わせをすることしていた。
「良かった、間に合いそうだわ」部下が、宝石店に向かっていた。
その時、通りの向こうの人影が目に入った。
「あら、先輩だわ」部下が、思わず、声に出した。
先輩が、通りの向こうの会員制クラブから出て来るところだった。
「それじゃ、ご検討ください」一緒に並んで歩いていた女性が、先輩に頭を下げた。
「先輩~!」部下が、空気も読まず、先輩に向かって、手を振った。
女性が、部下を一瞥して、足早に立ち去った。
「今の、お客様ですか?」部下が、先輩に駆け寄って、質問した。
「ああ、そんなところだよ」先輩が、受け流すように答えた。
「それじゃ、行きましょう!」部下は、やる気満々だった。
先輩と部下が、お客さんの家を訪ねて、ピアノの調律を始めた。
「すみません。部下の調律の練習をさせてください」先輩が、真摯に申し出た。
「良いですよ」お客さんも、心得たものだった。
「ありがとうございます」先輩が、頭を下げた。
「私ですか?」部下が、思わず、小声で聞いた。
「君の世代だったら、電子チューナーを用いた調律をしなさい」先輩は、単刀直入に指示を出した。
「はい」部下が、慌てて、電子チューナーを取り出した。
「ただし、電子チューナーに頼り過ぎないこと」先輩の指示は続いた。
「はい……?」部下には、それがどういう意味か、すぐには理解できなかった。
「ふふふ……」お客さんは、楽しそうに微笑んでくれた。
ほのぼの調律センターは、正直なところ、経営が上手く行っていなかった。
この日も、お客さんから電話が来た。
「あ……はい。長い間、ありがとうございました」ほのぼの調律センターの事務員が、電話を切った。
「キャンセルですか?」アナの父が、尋ねた。
「また、お得意様から、予約のキャンセルが……調律は、他の会社に頼むって……」事務員が、困った様子だった。
「またか」アナの父が、吐き捨てるように言葉を発した。
「Rチューニングの仕業だな」カズの父が、悔しそうに推測した。Rチューニング株式会社は、地元のライバルで、三倍ほどの規模があり、事業を急拡大していた。
「コツコツやるまでです」先輩が、静かに言った。
「営業営業!」アナの父が、暗くなった気分を一掃しようとした。
「そうだ! 行きましょう!」カズの父も、それに乗った。
そうして、先輩、アナの父、カズの父、部下が、飛び込みの営業に出かけた。
夕方、先輩が、三件の予約を取り付けて来た。
「凄いですね! コツはあるんですか?」部下が、興味津々に尋ねた。
「実際に調律させて頂くことです。それに尽きます」先輩が、ゆっくり答えた。
「なるほど。でも、私には……」部下の覇気がなかった。今の部下の実力では、調律することは、むしろ命とりだった。
「何事も挑戦ですよ」先輩が、諭すように告げた。
「そうですか……」部下が、どうすべきか思案した。
翌日、部下が、営業中、Rチューニング株式会社の社長と鉢合わせた。
「女性調律師ですか?」社長が、鼻で笑った。Rチューニング株式会社は、大きな会社だったが、社長の方針で、女性調律師は一人もいなかった。
「女だからって、甘く見ないでください!」部下が、怒って言い返した。
「せいぜい頑張ってください」社長が、笑いながら車に乗って、去って行った。
「あの野郎!」部下が、車に向かって、叫んだ。どうにも腹の虫が治らなかった。
♪
ある日曜日、支援学校の体育館で、合唱の発表会が開催された。アナ、カズ、弦太郎が、出場することになっていた。体育館には、生徒、先生、それに父兄など、二百名ほどの聴衆が集まった。参加するのは、支援学校の十五組のチームだった。それぞれのチームは、同級生を中心としていたが、他のクラスの生徒と組んでいるチームもあった。
体育館のステージ上には、ピアノが一台、置いてあった。開場前から、調律師が、ピアノの調律をしていた。
「高音部のピッチを少し高めに設定……」その調律師は、部下だった。
「障害児だらけ……」娘の響子が、見学に来ていた。
「もうすぐ終わるから」部下が、響子に告げた。
「一刻も早く終わらせて」響子が、居ても立っても居られない様子だった。まるで、ステージ上で、晒し者になったような気分だった。響子は、そんな気分になるくらい、とことん障害への理解が足りなかった。
そして、部下が調律を終えた。
合唱の発表会が、開演した。
アナとカズは、同級生とともに、発表会に参加した。二人のチームは、アナが、伴奏のピアノを弾くことになっていた。
しばらくして、アナとカズの順番になった。
「緊張する~」カズが、笑顔を見せた。
「さ、行くぞ!」アナが、カズの背中を叩いた。
二人のチームメイトが、ステージ上に整列した。
指揮者の先生が、ゆっくりと指揮棒を振って、アナが、演奏を始めた。
「!」指揮者の先生が、度肝を抜かれた。
アナは、一オクターブ高い鍵盤を弾いてしまっていた。
「アナ、違う違う」指揮者の先生が、アナに必死に伝えた。
「……ヤダ〜!」アナが、それに気付いて、演奏を立て直した。
「上出来だ」カズが、思わず声を出した。
「!」アナが、カズを一瞥して、演奏が、また少し乱れた。
「ららら~」チームメイトが、合唱を始めた。
「ららら~」カズも、何食わぬ顔で、歌い始めた。
アナが、稚拙ながらも、伸び伸びとピアノを弾いた。
歌声も、よく響いていた。
そして、終わった。
大きな拍手が湧いた。
アナとカズらが、舞台袖にはけて行った。
「おいコラ!」アナが、カズを一突き。
「僕のせいか?」カズは、やりきれない様子。
程なくして、弦太郎のチームの発表が始まった。
ピアノ演奏をするのは、弦太郎だった。
「綺麗な音……」アナが、弦太郎のピアノに聞き惚れた。
「綺麗な音……」カズが、アナの真似をした。
「ドス!」アナが、もう一度カズを一突きした。
「グハ!」カズが、痛そうな顔をした。
弦太郎のチームは、歌も上手だった。
「こりゃ負けたな」アナが、負けを認めた。
「だな」カズも、他人事のように言い放った。
弦太郎の演奏が、終わった。
そして、合唱の発表会の審査結果が出た。
校長先生が、ステージ上のマイクに向かって、優勝チームを発表した。
「やった!」弦太郎が、喜びをあらわにした。
優勝は、弦太郎のチームだった。
「ピアノ演奏が、飛び抜けていました」校長先生が、総評を述べた。
「ありがとう」弦太郎のチームメイトが、弦太郎の労を労った。
「こちらこそ、ありがとう」弦太郎が、丁寧にお礼を言った。
アナが、表彰式を見ながら、
「あの子、音楽室でピアノを弾いていた……?」
と、推測した。
「そうかも知れないね」カズも、同感だった。
表彰式が終わった。
「声かけてみようよ」アナが、カズの手を引いて、駆け出した。
「そうだね」カズも、アナに付いて行った。
アナが、弦太郎の元へ行って、
「あの……音楽室で、ピアノを弾いている方ですよね?」
と、尋ねた。
「……はい」弦太郎が、警戒しながら答えた。
「何と言ったら良いか……いつも癒されています」アナが、感想を述べた。
「……ありがとう」
「お名前は……?」アナが、思い切って聞いた。
「弦太郎といいます」
弦太郎のチームメイトが、先に行ってしまった。
「弦太郎さん……すみませんでした。お忙しいところ」アナが、丁寧にお辞儀をした。
「いえ」
弦太郎が、去って行った。
「気難しそうな人だね」カズが、感想を漏らした。
「鍛え込まれた手をしていた」アナは、違うところを見ていた。アナには、こうした不思議な着眼点があった。心眼と呼ぶような、物事の本質を見抜く能力だった。
部下と響子は、発表会の最中、会場の隅で、演奏に聞き入っていた。
「……負けるもんですか」響子が、アナと弦太郎の演奏中にライバル心をむき出しにしていた。
「その意気よ」部下が、響子の野心に期待していた。
そして、発表会が終わって、響子が、イライラしていた。
「落ち着きなさい」部下が、響子を諌めた。
「下手くそ!」響子が、アナと弦太郎に大声で暴言を吐いて、おもむろに体育館のステージに向かって、歩み始めた。
「コラ、響子!」部下が、響子の手を引いた。
「お母さんは見ていて!」響子が、ステージに上がって、ピアノの演奏を始めた。響子は、こうなると手がつけられない。
「……」部下が、仕方なく、響子の挙動を見守った。
「何かしら?」アナが、ステージ上を振り向いた。
「うん、何だろう?」カズも、ステージ上を見た。
「……」弦太郎も、体育館の出口で振り返った。
素晴らしい演奏だった。
「どうだ!」響子が、一気呵成にピアノを弾き終えて、雄叫びを上げた。
「パチパチパチ」体育館の支援学校の関係者が、みんな拍手をした。
「え……?」響子が、一瞬たじろいだ。拍手されるのが、意外だったのだ。
例えライバルでも、良いものは良い。支援学校の関係者の判断は、極めてシンプルだった。
「これが、障害の世界よ」部下が、響子に優しく声をかけた。
「お母さん……?」響子が、動揺した。
「支援学校を見学させてもらいましょう」部下が、響子を誘った。
「……うん」
響子が、部下の後について、体育館を横切った。支援学校の関係者が、響子に羨望の眼差しを向けた。響子は、気恥ずかしい気持ちになった。
部下が、響子を連れて、支援学校の見学をした。支援学校の教室は比較的広かったが、各教室に机が数個しかなく、がらんとしていた。そして、各階には、とても大きなスロープがあった。響子は、普通の学校との違いに少しだけ興味を持ち始めていた。
部下と響子が、音楽室に着いた。
「弾いてみて良い?」響子が、音楽室のピアノを指差した。基本的にピアノがあると弾きたくなった。ピアノが好きだったのだ。
「良いと思うよ」部下が、優しく答えた。
「じゃ……」響子が、音楽室で、ピアノを弾いた。
「……」部下が、静かに聞いていた。
「良い調律ね」響子が、弾き終えて、感想を漏らした。
「でしょう」部下が、得意げに笑った。
「お母さんが調律したの?」響子が、部下の反応を見て聞いた。
「違うよ」部下が、そっけなく答えた。
「何だ!」響子が、突っ込みを入れた。
「ハッハハハハ」部下と響子が、大きく笑った。
2
未成年を対象とするピアノコンクールが、開催されることになった。具体的には、小学生以上が対象で、高校を卒業した二十歳未満が、対象だった。ほのぼの調律センターにも、参加募集の案内が届いた。
アナの父とアナが、自宅で夕食を食べていた。アナの母は、またしても仕事で遅かった。
「アナ、今度コンクールに出てみないか?」アナの父が、アナに声をかけた。
「ピアノの?」アナが、ご飯をモリモリ食べながら聞いた。アナは、ご飯を食べるのが大好きだった。
「うん」アナの父も、ご飯を口に含んで答えた。
「そうだなぁ……自信ないけど」アナが、あまり乗り気ではなかった。食事中に話しかけたからかも知れなかった。
「良いんだよ。良い経験になるから」アナの父が、アナに勧めた。
「じゃ、出てみようかな」アナが、首を縦に振った。
「そうこなくちゃ」アナの父が、喜んだ。
こうして、アナが、ピアノコンクールへの出場を決めた。
カズの家族が、夕食後、自宅の居間でくつろいでいた。
「カズ、コンクールはどうだ?」カズの父が、カズにピアノコンクールの話題を振った。
「どうだって……味は嫌いじゃないけど、入れ物がね。あれじゃまるで、キャットフードだ」カズが、真顔で答えた。
「それは、コンビーフ」カズの父が、真顔で突っ込んだ。
「ハッハハハハ」カズの家族が笑った。
「流石にそれは、分かっているって」カズが、笑いながら弁解した。
「アナちゃんも出るらしいぞ」カズの父が、奥の手を出した。
「じゃ、出てみようかな?」カズの気持ちが動いた。
「そうしなよ。思い出作りに」カズの父が、ダメ押しをした。
「そうだね」カズが、ピアノコンクールへの参加を承諾した。
翌日、部下が、帰宅して、響子と食事を作り始めた。
「響子、コンクールに出場するよ」部下が、響子に指示した。
「また~?」響子が、うんざりして反発した。
「一つでも多くの勝利を重ねれば、将来のためになるから」部下は、実のところ、娘思いだったのだ。
「まあ、出るけど。大きなコンクールなの?」響子も、満更でもなかった。
「規模はそれほどでもないけど、アナちゃんとカズくんも出るから」部下が、会社で、アナの父とカズの父から、二人の出場のことを聞いていた。
「え~、あの障害児でしょ?」響子が、障害を毛嫌いした。
「そう言わないの!」部下が、響子に強く言った。
「良いよ、出るよ」響子が、了承した。
「そう」部下が、ほくそ笑んだ。
先輩が、自宅に戻って、弦太郎と一緒に弁当を食べ始めた。
「弦太郎、コンクールがあるが、出なくて良いよな?」先輩が、夕食中に、弦太郎に聞いた。
「僕はどちらでも」弦太郎が、冷静に答えた。
「そうか、会社の後輩の子供たちが出るようだが、不参加で良いか?」先輩が、もう一度意思確認した。
「うん。不参加で良いよ」弦太郎が、はっきりと答えた。
「分かった」先輩が、黙々と食事を続けた。
♪
アナの家では、アナの父が、アナにピアノコンクールに向けた指導をしていた。
「お父さん、ここは、どんな感じで弾けば良いの?」アナが、ピアノを弾く手を止めて、アナの父に聞いた。
「ああ、基本的には、気持ちの問題だから、アナのイメージした通りで良いんだよ。そのイメージをいかに音に乗っけられるかが勝負だから」アナの父が、抽象的に答えた。
「イメージかぁ……」アナが、アナの父の指示に素直に従った。
アナは、昔、ピアノコンクールに出場したが、演奏中に体調を崩して、椅子から崩れ落ちたことがあった。心臓に負担がかかって、軽い心停止の状態になってしまったのだ。アナは、その時、生死をさまよったが、次の演奏者の少年が、的確な対応をしてくれて、すぐに、心臓は、動き出した。その後、病院に搬送されて、大事には至らなかった。
「怖かった……」アナは、その時、怯えて震えていた。
アナは、それが、トラウマになっていた。
「アナ、ピアノ演奏に集中すれば、大丈夫だから!」アナの父は、アナのトラウマを払拭させるために、必死に指導した。
「うん。集中集中!」アナもまた、アナの父の気持ちを理解していたので、練習に励んだ。
アナは、こうして、トラウマを克服しようと、日々努力を重ねていた。その甲斐あって、支援学校の音楽の時間など、人前でピアノを弾くことが怖くなくなりつつあった。心臓の状態も、その時よりは、格段に安定していた。アナは、調律師の父のために、ピアノを弾いた。その姿を見せることで、アナの父を安心させるとともに、尊敬の念を表現していた。
カズは、家にピアノがないので、よくアナの家に行って、ピアノを弾かせてもらっていた。
「もう少しテンポに変化を付けてみれば?」カズが、アナの家で、アナにアドバイスをした。
「うるせえ」アナが、文句を言いながら、黙々と練習した。
「素直じゃないんだから~」カズが、残念そうに愚痴った。
「カズ、弾く?」アナは、それでも優しい一面があった。
「僕は、また今度で良いよ」カズは、いつも遠慮した。
「なんだよ……コンクールで勝てないぞ」アナが、ピアノを弾きながら、カズに声をかけた。
「それでも良い。アナの練習を聴くのが僕の練習だから」カズが、殊勝にそう告げた。
「あっそう」アナが、少し嬉しそうに曲のテンポに変化を付けた。
「ね、テンポを変えた方が良い」カズが、得意げ。
「まあ、確かにそうだな」アナが、負けを認めた。
しばらくの間、アナが、ピアノの練習を続けて、カズが、それを見守った。
「カズ、本当にコンクールに出るの?」アナが、改めて、カズに聞いた。
「一応、やってみる。アナも出るし」カズは、コンクールに出るのが、初めてだった。
「大丈夫かしら? 面白いことしなくて良いからね」アナが、カズに釘を刺した。
「分かっているって」カズが、意味深な笑いを浮かべた。
響子の家では、部下が、響子に厳しくピアノを教えていた。
「毎回、新鮮な気持ちで弾くことを忘れちゃダメよ!」部下のゲキが飛んだ。
「分かってるって!」響子は、もう幾つもコンクールに出場していた。優勝の経験もあったが、最近は、良い成績を収められていなかった。
「そこはそうじゃないでしょ! 何度言ったら分かるの!」部下が、指導の手を緩めなかった。
「もう、大きな声出さないでよ!」響子が、部下に反抗した。
こうして、練習中は、部下も響子も、カリカリしていた。
弦太郎の家では、弦太郎が、のんびりとピアノを弾いていた。
「弦太郎、無理しなくて良いからな」先輩が、優しく声をかけた。
「うん。無理はしないよ」弦太郎は、ピアノの実力は申し分なかったが、心臓への負担をかけまいと、コンクールには、ほとんど出場したことがなかった。
「あの時は、心配したぞ」先輩が、懐かしそうに昔を思い出した。
弦太郎は、弦太郎の母が、入院した時に、自ら志願して、コンクールに出場した。その時、根を詰めて練習し過ぎて、心臓に負担がかかってしまった。
「あの時は、意地でも優勝したかったから」弦太郎が、照れ臭そうに答えた。実際、弦太郎は、その時、見事に優勝を勝ち取った。
「今日は、もう寝なさい」先輩が、弦太郎に声をかけた。
「ピアノ買ってもらったから、いつまでも練習しちゃう」弦太郎は、ピアノの練習が大好きだった。
「無理するなよ」先輩が、弦太郎の体を気遣った。
「ピアノを弾いているくらいなら大丈夫だよ」弦太郎は、ピアノを弾きたくて仕方がなかった。
「そうでもないぞ」先輩は、優しく何度も、声をかけた。
「そうかなぁ」弦太郎が、ピアノに夢中。
♪
未成年対象のピアノコンクールの当日になった。会場は、市民ホールで、ステージ上には、ピアノが一台ぽつんと置いてあった。観客は三百人ほどだった。参加者は、高校生を中心に、二十名だった。
「こうして見ると、意外に広いね~」アナが、市民ホールの客席に入って、カズに声をかけた。
「お客さんも、いっぱい来ると良いね」カズが、嬉しそうに微笑んだ。
「退きなさいよ!」響子が、市民ホールに入った。
ステージ上では、調律師が、ピアノの調律をしていた。調律するのは、先輩と部下だった。
「やって見なさい」先輩が、部下に促した。
「……はい」部下が、電子チューナーを使って、ゆっくり着実に調律した。
「うん、良いだろう。これで、本番の演奏を客席でよく聴きなさい」先輩が、オッケーを出した。
「はい」部下が、満足そうに調律の道具をしまった。
アナとカズが、衣装を着替えて、控え室に姿を現した。
「見て、あの子たち、障害児じゃない?」コンクール参加者の子供が、アナとカズを白い目で見た。
「僕たちのことかな?」カズが、悔しそうにアナに声をかけた。
「気にするな」アナが、強気に答えた。
アナの演奏が、始まった。
アナが、辿々しい演奏を披露した。
「は~、間違えそう!」アナの父が、ハラハラしながら、アナの演奏を聴いていた。
アナは必死だった。
しかし、アナは、まだトラウマから抜け出せずにいた。
「アナ、上出来だ」
カズの演奏の順番が来た。
カズが、椅子に座って、鍵盤を叩き始めた。
カズにしては、まあまあの出来だった。
「良いぞ~、完璧じゃないか!」カズの父は、案外カズを信頼していた。
「お父さん……」カズが、演奏をしながら、カズの父の方をチラ見していた。結構、余裕があった。
響子の演奏の番になった。
「あ……」響子は、出だしから、音を外した。
「あれだけ口を酸っぱくして言ったのに、まだ直っていない!」部下は、響子に厳しくダメ出しをした。
「お母さん、怒っている……」響子は、部下の声が聞こえて、恐縮してしまっていた。
全ての演奏が終わって、結果が、発表された。
「優勝者は……悪田くん」優勝したのは、悪田という少年だった。悪田は、健常児で、Rチューニング株式会社の社長の息子だった。
それから、二位以下と聴衆賞などが、発表された。
三人は、入賞できなかった。
「おんぼろ会社の子供が、入賞なんてできる訳ないだろう」悪田が、アナ、カズ、響子を馬鹿にした。
「何よ!」響子が、悪田に食ってかかった。
「負け犬の遠吠えかよ」悪田が、響子を挑発して、去って行った。
「パワハラみたいなものね」響子が、愚痴った。実際のところ、Rチューニング株式会社は、このコンクールのスポンサーだった。そして、このコンクールは、ほのぼの調律センターのイメージダウンのために画策されたものだった。
帰り道、アナとカズが、手を繋いで歩いていた。
「退きなさいよ!」響子が、二人の手を切り離して、足早に通り抜けて行った。
「……」アナとカズが、言葉を失った。
「アンタ達のせいだからね!」響子は、入賞すらできなかったことで、腹の虫が、治らなかった。
「何で?」カズが、キョトンとした。
「気にするなよ、カズ」アナが、涙を必死に堪えながら、カズに声をかけた。
「泣いても良いよ。僕が泣かしたことにする」カズが、アナに声をかけた。
「そんな気を利かさなくても良いんだ……ありがとう」アナの目から、涙が溢れた。
アナとカズは、障害児ということで、こうした偏見を受けて育って来た。それは、いつまで経っても、慣れるということがなくて、いつも辛い思いをしていた。偏見からは、逃れられないのだ。
先輩と部下は、演奏の間中、ステージの脇で、調律に問題がないか、確認していた。
閉演後、先輩が、部下に、
「どうでした?」
と、調律の考えを聞いた。
「なんだか泣けて来て……一人一人、あんなに違うんですね。誰かに合わせれば、他の子には、会わなくなるし……申し訳なくて……」部下が、切々と言葉を紡いだ。
「ご名答。だから、調律は難しい。そこで、電子チューナーの出番なんです。公正公明にえいやと、線を引く。時には、そういう調律も必要になって来る訳です。響子さんの調律も、電子チューナーでやって見ると、音が安定するかも知れませんね」先輩が、優しく考えを伝えた。
「ありがとうございます。そうして見ます」部下が、お礼を言った。
「頑張って」先輩が、部下の肩をちょこんと叩いて、去って行った。
部下が、先輩に向けて、深々と頭を下げた。
♪
アナとカズは、支援学校の生物部に所属していた。部員は、支援学校の高等部だけでなく、中等部や小学部の子供たちもいて、総勢三十名ほどだった。生物部の顧問は、カズの母だった。生物部の部室では、小さなハムスターを数匹飼っていた。
「飲み水の容器は、時々洗ってね。雑菌が繁殖するから」アナとカズが、中堅の部員として、甲斐甲斐しく、子供たちにハムスターの世話の仕方を教えていた。
「アナさんは、いつ頃から、このハムスターを飼っているんですか?」小学部の子供が聞いた。
「昨日」アナが、キッパリと答えた。
「昨日!」小学部の子供が、目を丸くして、驚いた。
「その目が見たかったの。ハムスターと同じ」アナが、笑った。
「意味が分からない」小学部の子供が、アナに不信感を抱いた。
「アナは、いつも奥が深いんだ」カズが、小学部の子供たちに解説した。
「どう深いんですか?」小学部の子供が、カズに聞いた。
「僕も分からない」カズが、当たり前のように開き直った。
「カズさんも、意味分からない」小学部の子供が、匙を投げた。
「ハッハハハハ」アナとカズが、大きな声で笑った。
アナとカズは、いつからハムスターを飼っているかを伝えることで、ハムスターの死期を悟られるのを避けたのだ。ハムスターの寿命は、一般的に、二、三年ほどである。つまり、飼い始めた時期を教えれば、その死期も教えることになる。ハムスターも、死ぬ時が来る。その時、子供たちは、泣くだろう。だから、教えなかった。
ある日の放課後、アナとカズが、生物部の部室で、部員に囲まれて、ハムスターの世話の実演をしていた。
「なあ、ハムスターの運動会をしないかい?」アナが、突如として、言い出した。
「何をするの?」カズが、聞いた。
「ミニ四駆のコースを利用して、競争させるんだ」アナが、提案した。
「へぇ、面白そうじゃん」カズも、賛同した。
後日、生物部の部員が、ミニ四駆のコースを持ち寄って、部室で、ハムスターの運動会を開いた。コースは、カーブあり、アップダウンありの総延長十メートルにも及ぶ、大掛かりなものになった。
最初は、試しに、ハムスターを何匹か、コースを走らせてみた。
「意外と、コースを外れずに、走るじゃん!」アナが、喜んだ。
「じゃ、運動会を始めようか!」カズが、部員に声をかけた。
「どうせなら、賭けようぜ」アナが、ニヤリと悪い顔をした。
「マジか」カズが、耳を疑った。
そうして、ハムスターの賭け運動会が、始まった。
「イエ~イ! 親の総取りだ!」アナが、絶叫した。
「わーわー!」生物部の部室が、盛り上がった。
その時、カズの母が、部室に入って、
「コラ~! 子供たちに変なことを教えないの!」
と、アナを叱った。
「すみませ~ん」アナが、部室から逃走した。
♪
アナとカズが、いつものように支援学校の授業を受けていた。
その時、台風が接近して、風雨が激しくなった。
「大丈夫かしら?」アナが、心配した。
「全校生徒の皆さん。危険ですので、体育館に避難してください」校内放送が、流れた。
「避難だって……」アナが、不安そうに言葉を発した。
「大丈夫だから」カズが、アナを安心させた。
その後、支援学校の全校生徒が、体育館に避難した。
全校生徒が、不安になって、体育館が、ザワザワしていた。
その時、弦太郎が、ステージ上に上がって、おもむろに体育館のピアノを演奏し始めた。
「どうして?」アナが、弦太郎の元へ行って、声をかけた。
「みんなを和ませたいんだ。ピアノには、それだけの力がある」弦太郎が、ピアノを弾きながら、ゆっくりと答えた。
「一緒に弾いて良い?」アナが、弦太郎の隣に立った。
「もちろん」弦太郎が、微笑んだ。
「それじゃ」アナも、弦太郎と一緒に弾き始めた。
全校生徒が、二人の演奏に聞き入って、安心した。
それから、アナ、カズ、弦太郎は、体育館の一角で、座って台風をやり過ごそうとしていた。
アナ、カズ、弦太郎が、誕生と告知の時の様子について語り合った。
アナが胎内にいる時に、エコー検査で、ダウン症の疑いがあることが分かった。
アナの父母が、産婦人科の医師に呼ばれた。
「確定診断をしますか?」医師が、アナの父母に尋ねた。
「……いいえ。ダウン症でもそうでなくとも産みます」アナの母が、気丈に答えた。
「そうだね」アナの父も、賛同した。
そうして、アナの母は、ダウン症のアナを産むことにした。
数週間後、アナの母の陣痛が来た。
アナの母が、分娩室で数時間息んで、
「オギャーオギャー」
と、アナが、産まれた。
アナは、産後、すぐに分娩室から、どこかに連れて行かれた。
「抱かせてもらえないの?」アナの母が、不安そうに看護師に尋ねた。
「検査をしますのでね~」看護師が、優しく答えた。
一週間後、アナの父母が、再び、医師の診察室に呼ばれた。
「やはりダウン症でした」医師が、神妙な顔をした。
「先生、辛気臭いな~。もっと明るくいきましょうよ。ダウン症だからって、不幸って訳じゃないんですから。幸せにしますよ~、な?」アナの父は、目に涙を溜めて、アナの母に同意を求めた。
「当たり前じゃない」アナの母も、涙を流していた。
以来、アナの母は、大学の医学部に進学して、医師を目指した。
カズとアナは、幼稚園の同級生だった。
ある日、カズの母が、カズを迎えに行くと、園長先生に呼ばれた。
「カズくん、小学校に上がる前に検査を受けてみては?」園長先生が、控え目に告げた。
「何の検査ですか?」カズの母が、怪訝そうに聞いた。
「発達障害」園長先生が、短く言った。
「え?」カズの母が、キョトンとした。
後日、カズの母が、カズを連れて、総合病院へ検査に行った。
一週間後、カズの母が、検査結果を聞きに行った。
「カズくんは、発達障害です」医師が、淡々と告げた。
「そ、そんな……」カズの母が、意気消沈した。
「どうしよう……?」カズの母が、アナの母に相談をした。
「そっか。でも、アナと一緒のクラスになるなら、アナに任せてみるわ。あの二人なら、なんとかしてくれそうな気がする」アナの母が、カズの母を優しく勇気付けた。
「……それもそうね。少し希望が見えて来たわ」カズの母に笑顔が戻った。
「私たちが、落ち込んでどうするの?」アナの母が、カズの母の肩をポンと叩いた。
「私……支援学校の先生になるわ」カズの母が、希望を持った。
「良いじゃん」アナの母が、応援した。
「カズの先生になる!」カズの母が、宣言した。
「その意気だ!」アナの母が、力強く拳を握った。
「ハッハハハハ」二人が、暗い雰囲気を吹き飛ばすように笑った。
そうして、カズの母は、支援学校の先生になった。
弦太郎の母が、弦太郎を身ごもった。弦太郎の母は、元々体が弱く、高齢出産で、その上、赤ちゃんはダウン症だった。
「母子ともに、危険な状態です」医師が、先輩と弦太郎の母に伝えた。
「僕は、君の体が心配なんだ」先輩が、弦太郎の母を労った。
「例え差し違えてでも、産んでみせるわ」弦太郎の母が、キッパリと言った。
「……分かった。もしものことがあっても、立派に育てる。約束するよ」先輩が、覚悟を決めた。
「ありがとう」弦太郎の母が、微笑んだ。
出産予定日の一週間前、弦太郎の母の陣痛が始まった。
分娩室に担ぎ込まれた。
先輩が、廊下に立って、母子の無事を祈った。
数時間が経った。
「オギャーオギャー」弦太郎が、産まれた。
「妻は……?」先輩が、居ても立っても居られず、分娩室のドアを開けて問うた。
「大丈夫。乗り切りました」医師が、嬉しそうに微笑んだ。
「良かった……」先輩が、人前で初めて涙を見せた。
「貴方、ありがとう」弦太郎の母が、うっすらと笑った。
「僕は、何もしていないよ」先輩が、遠慮がちに声をかけた。
「いいえ、不思議と祈りの声が聴こました」弦太郎の母が、はっきりと答えた。
「そんなことはないだろう。声に出してないよ」先輩は、冷静に言い返した。
「いいえ、聴こえました」それでも、弦太郎の母は言った。
「……そうか。じゃあ、聴こえたんだろう」最後は、先輩が折れた。
「弦太郎にも、届いていたんだと思いますよ」弦太郎の母が、微笑んだ。
「そうだな……」先輩が、弦太郎の妻の前で、慟哭した。
アナ、カズ、弦太郎が、話を終えた。
「弦太郎くんは、ピアノコンクールには出ないの?」アナが、話題を変えた。
「心臓が弱いから」弦太郎が、心臓病のことを打ち明けた。
「そっか……」アナが、心配した。
「昔、コンクールで前の演奏者の女の子が、体調を崩してね」弦太郎が、コンクールに参加した時の様子を語り始めた。
「どうしたの?」アナが、驚いて聞いた。
「すぐに心臓マッサージをしたら、すぐに良くなったよ」弦太郎が、ほっとした様子で答えた。
「……あの時の少年、弦太郎くんなの?」アナが、自身がコンクールで倒れた時のことを思い出していた。アナを助けたのは、弦太郎だったのだ。アナの中で、何かが弾けた。守ってくれる人がいるんだ。そんな感覚を持つことができた。アナは、大きなトラウマにヒビが入る音を聞いた。
「そうか、あの時の女の子は、アナちゃんか」弦太郎が、懐かしそうに微笑んだ。
「ありがとうね。命の恩人だ……弦太郎くんは、ピアノはいつから?」アナが、質問した。
「今は、ピアノを買ってもらったけど、幼い頃は、電子キーボードを買ってもらって、練習していたんだ」弦太郎が、昔を思い出した。
「あ、僕と同じだ」カズが、嬉しそうに口を挟んだ。
「これからは、道具のせいにできないな」アナが、カズに突っ込みを入れた。
「でも、ピアノ買ってもらったんでしょ?」カズが、弦太郎に話を振った。
「調律の練習のためにね」弦太郎が、あっけらかんと答えた。
「調律の練習のため?」カズが、驚いて聞き返した。
「うん」弦太郎が、返事をした。
「調律師の英才教育か」アナが、嬉しそうに微笑んだ。
♪
夏休みに、地元のカルチャースクール主催のピアノの調律師育成の短期講座が、一泊二日で開催されることになった。ほのぼの調律センターにも、募集広告が貼られ、調律師たちが、子供に声をかけた。
「アナ、ピアノの調律師の講座に行ってみたいか?」アナの父が、アナに聞いた。
「そんなのあるの?」アナが、少し驚いた。
「ああ、初の試みらしい」アナの父が、説明した。
「行ってみたいわ」アナが、嬉しそうに参加を希望した。
「そうか、じゃ、応募しておくね」アナの父が、アナの参加を通達した。
アナの他にも、カズ、弦太郎、響子が、講座の受講を決めた。
短期講座の開催日になって、アナ、カズ、弦太郎、響子が、顔を揃えた。
「あの子たち、障害児だよ」悪田も、短期講座に参加していた。
「また、あいつだ……」アナが、偏見に遭って、深く傷ついた。
障害児は、こうして、いつどことなく偏見の対象になる。それには、慣れるということがない。いつまで経っても、辛さは、続くのだ。
「悪田って、同級生なのよ。いけすかない奴でね……大嫌い!」響子が、吐き捨てた。
「あんなのが同級生なんて、同情するよ」カズが、響子を憐れんだ。
短期講座が始まって、実際に調律も体験した。
「結構繊細な作業なのね」アナが、大変そうに調律を学んだ。
「流石、弦太郎くんだ。手際が良い」カズが、弦太郎を褒めた。
「いつものことだから」弦太郎が、照れ臭そうに謙遜した。
「お母さん、これじゃ大変だ」響子は、部下の苦労を身をもって体験した。
「細かい作業だな!」悪田が、悪態をついた。
そうして、調律の短期講座の一日目が終了した。
「響子さん、夜、一緒に打ち上げパーティをしない?」アナが、響子に問うた。
「……まあ、良いけどぉ」響子は、満更でもない様子。四人は、短期講習を通して、少しだが理解し合えた。
夜、四人が、宿泊先のホテルのカズと弦太郎の部屋で、集まって打ち上げパーティを開いた。
「弦太郎くんは、どうして、毎週金曜日に音楽室でピアノを弾いているの?」アナが、質問した。
「ああ、インターネットで、海外のラジオ講座を聞いていたんだ」弦太郎が、静かに答えた。
「ラジオ講座?」アナが、不思議そうに聞き返した。
「うん、ピアノの演奏についてのね」弦太郎が、優しく告げた。
「そんなのあるんだ~」アナが、それを知って、感激した。
「そのパーソナリティって……うちのお父さんだわ」響子が、驚いて口を挟んだ。
「ほ、本当かい?」弦太郎が、珍しく大きな声を出した。
「そうよ。時々、調律のことも語っている」響子が、確認するように付け加えた。
「そうそう。毎回とても参考になるんだ。驚いたな~」弦太郎が、珍しく饒舌になった。
「ありがとう、聴いてくれて」響子が、響子の父の代わりにお礼を言った。
「いや……驚いた」弦太郎が、興奮冷めやらぬ様子。
「弦太郎くんも、驚くのね」アナが、お茶目に突っ込んだ。
「ハッハハハハ」
「お父さんも、誰かの役には立っているのね」響子が、しみじみと述べた。
それから、四人は、ピアノとの出会いについて語り合った。
「小学校に入った時に、ピアノを買ってくれて。夢中で弾いたわ。上達してないけど」アナが、昔を思い出した。
「意外に遅いんだね」響子が、感想を述べた。
「遅い?」アナが、驚いて聞き返した。
「遅いよ~」響子が、もう一度合いの手を入れた。
「そっか……今思えば、ダウン症で、みんなと違うクラスに進むことが決まっていて、元気なかったからかな。今は、ピアノに救われている」アナが、アナの父母の気持ちを推測した。
「僕は、発達障害だと分かって、数年後かな。お父さんに勧められて」カズが、ピアノとの出会いを話した。
「小学校の低学年くらい?」響子が、カズに質問した。
「そのくらいかな」カズが、思い出して答えた。
「弦太郎くんは?」アナが、弦太郎に聞いた。
「物心ついた頃から、お父さんのピアノを聴いていたんだ」弦太郎が、懐かしそうに答えた。
「一流の調律師のピアノ演奏って、どんな感じ?」アナが、興味津々に問うた。
「そうだな……独特なんだと思う。ピアノを労わる気持ちが表れているようで……凄いんだ」弦太郎は、父を心底尊敬していた。
「そっか。聴いてみたいな」アナが、嬉しそうに希望を述べた。
「響子は、早くから?」カズが、響子に質問した。
「お母さんの勧めで、幼稚園に入る前から、ピアノ教室に通っていた」響子が、昔を思い出しながら答えた。
「ピアノ教室か。本格的だね」カズが、感想を漏らした。
「正直、辛かったけどね」響子が、元気なく答えた。本当に辛い毎日を過ごしていた。
「頑張れ!」アナが、響子を鼓舞した。
「でも、ピアノが、心の拠り所になった」響子が、締めくくった。
四人は、そのままカズと弦太郎の部屋で眠りに就いた。
夜中、アナが、寝付けなかった。
「響子、起きている?」アナが、静かにささやいた。
「……」返事はなかった。
「……寝たか。カズ、起きているよね?」アナが、カズに声をかけた。
「よく見抜いたな」カズが、楽しそうに答えた。
「響子、心を開いてくれそうだね」アナが、嬉しそうに感想を漏らした。
「ああ。悪田が嫌いってことで、共通点もあったし、親近感が湧いたね」カズも、喜んでいた。
「悪田に感謝しなくちゃ」アナが、お茶目に言った。
「ははは、本当だね」カズが、思わず笑い声をあげた。
「静かに……本当は良い子だったね」アナが、しみじみと言った。
「話してみるとね」カズも、同感だった。
「良かった良かった」アナが、静かに眠りに就いた。
「……」響子は、起きていた。
翌朝、四人が、短期講座の最終日を迎えた。
四人は、調律の仕上げをした後、最後にピアノ演奏を披露することになった。
まず、響子が、ピアノを弾いた。
「響子、吹っ切れたね」アナが、嬉しそうに微笑んだ。
「本当に。伸びやかな良い演奏だ」カズも、喜んだ。
その後、アナ、カズ、弦太郎が、ピアノを演奏した。特に、弦太郎が、とんでもない演奏を披露した。
「障害児って、こんなんなの……?」健常児たちが、驚いて口をぽかんと開けていた。
「見たか!」響子が、吠えた。
「響子ったら……」アナが、嬉しそうに微笑んだ。
そうして、ピアノの調律師育成の短期講座が幕を閉じた。
3
一般の社会人を対象にしたピアノコンクールが、開催されることになった。
「これにお父さんを出場させたいわ」アナが、ピアノコンクールのポスターを駅前で見つけた。
「そうだね。何位になるか、興味あるよね」カズも、賛同した。
「二人で、誘ってみましょう」アナが、乗り気になった。
「そうしよう!」カズも、承諾した。
アナが、家に帰って、
「ねぇ、コンクールに出てよ~!」
と、アナの父にせがんだ。
「仕方ないな~」アナの父も、満更でもない様子。
「良いでしょ?」アナが、最終確認をした。
「良いよ。出るよ」アナの父が、許諾した。
「やったー」アナが、両手を挙げて、感激した。
カズも、自宅で夕食を食べながら、
「お父さん、ピアノコンクールに出てよ」
と、カズの父に声をかけた。
「え~、優勝できるかなぁ?」カズの父は、望みが高かった。
「出るだけで良いからさ~」カズが、熱意を見せた。
「それならできる」カズの父が、案外乗り気。
「じゃ、良いよね?」カズが、念を押した。
「優勝狙うけどね」カズの父が、まだ優勝に固執していた。
こうして、アナの父とカズの父が、ピアノコンクールへの参加を決めた。
「会社の二人も誘って」アナが、アナの父に懇願した。
「話してみるよ」アナの父が、約束した。
翌日、アナの父とカズの父が、ほのぼの調律センターに出社した。先輩と部下は、一足早く会社で作業をしていた。
「僕たちが、ピアノコンクールに出ることで、アナ、カズ、弦太郎くんに、生きる術を伝授したいんです。これから、自分の力で生きていくために」アナの父が、先輩を説得した。
「親の頑張る様を見せたいんでしょ?」カズの父も、援護してくれた。
「三人を立派に育てたいんです」アナの父が、力を込めた。
「響子も、混ぜてくださいな」部下が、三人の仲間に入れるように口を挟んだ。
「そうだね。響子ちゃんも含めて、四人のために」アナの父が、訂正した。
「そうですね……」先輩が、色々思案した。
「お願いします」アナの父が、先輩の背中を押した。
「仕方ない。その熱意もまた、子供たちのためですね。良いでしょう。それに、皆さんの調律の勉強にもなるでしょうから」先輩が、参加を承諾した。
「ぜひ私も参加させてください」部下も、参加を望んだ。
「ただし……生きる術を伝授するというのは、すぐにできることではないでしょうから、時間をかけて伝えて行きましょう。焦らずゆっくりと」先輩が、釘を刺した。
「はい」アナの父が、満面の笑みを見せた。
こうして、アナの父、カズの父、先輩、部下が、一般のピアノコンクールに出ることになった。ピアノコンクールへの参加は、全て、四人の調律師の親心だった。
アナの父が、自宅に戻って、アナに、
「ピアノコンクールに参加するよ。カズのお父さんと、弦太郎くんのお父さんと、響子ちゃんのお母さんもね」
と、報告した。
「四人も! 本当なの?」アナが、感激した。
「ああ、快諾してくれた」アナの父が、話し合いの様子を伝えた。
「良かった。頑張ってね」アナが、アナの父を鼓舞した。
「全力で臨むよ」アナの父が、上位入賞を狙った。
アナの父、カズの父、先輩、部下が、終業後に、会社に集まって、練習をした。
「弦太郎くんと響子ちゃんは、家に一人ですか?」アナの父が、心配した。
「ああ、慣れっこですから」部下が、あっけらかんと答えた。
「これから、生きる術を伝授しようという人間が、自分の子供を信頼しなくてどうするんですか?」先輩も、安心し切っていた。
「……そうですね。勉強になります」アナの父が、反省した。
「あれだけ熱弁を振るってたのに、ダッサ~」カズの父が、突っ込みを入れた。
「うるせえよ!」アナの父が、カズの父に反発した。
「お二人は、本当に仲が良いんですね」部下が、しみじみと突っ込んだ。
「良くねえよ!」二人がハモった。
「ハッハハハハ」
四人が、ピアノ演奏の練習を始めた。
「ピアノの腕前は?」カズの父が、部下に問うた。
「ピアノには自信があります」部下は、音大でピアノを専攻していた。
「響子ちゃんにも、指導しているの?」アナの父が、部下に聞いた。
「もちろん」部下が、当たり前のように答えた。
「厳しそうだな……」カズの父が、茶々を入れた。
「ハッハハハハ」
「響子は、天才だと思っています」部下が、響子に期待を込めた。
「僕は、薬指が、これだし、あまり上手く弾けないんですけど」アナの父が、自分のことを話し始めた。
「アナには、どうして、ピアノを?」カズの父は、長い付き合いだったが、その理由を知らなかった。
「アナに色々趣味を持たせてやりたくて」アナの父が、真剣に答えた。
「趣味以上になっているじゃん」カズの父が、微笑んだ。
「アナが、あそこまで努力するとは、思わなかったよ。嬉しい誤算」アナの父が、嬉しそうに述べた。
「計り知れない誤算ですね」先輩が、言葉を発した。
「先輩は、どうして、調律師になったんですか?」アナの父が、先輩に質問した。
「僕は、もっぱら生きるためです。ピアニストとしては、食べていかれなかったから」先輩が、静かに答えた。
「次元の高い話ですね」アナの父が、丁寧に言葉を紡いだ。
「そんな立派なものではありません」先輩が、謙遜した。
「お前は?」アナの父が、カズの父に尋ねた。
「僕は、もっぱら生きるためです」カズの父が、答えた。
「先輩と同じことを吐かすな」アナの父が、突っ込みを入れた。
「ぷっ」部下が、思わず吹き出した。
「ハッハハハハ」四人が、部下の反応に大きく笑った。
その夜、カズの父が、自宅で黙々とピアノの練習をしていた。
「お父さんに優勝してもらいたいな」カズが、布団の中で願った。
♪
一般のピアノコンクールの当日になった。会場は、市民ホールで、ステージ上には、ピアノとオーケストラが構えていた。観客席には、三百人ほどの聴衆が詰めかけた。参加者は、三十五名だった。
コンクールの前に、アナ、カズ、響子、弦太郎が、それぞれの親を激励した。
「頑張ってね、お父さん」アナが、アナの父に声をかけた。
「お父さんは、左手の薬指がない。でも、精一杯弾くよ。見ていなさい。障害になんて負けないから」アナの父は、何とかして、アナに生きる術を伝授させたかった。
「うん」アナも、その気持ちを汲んでいた。
「お父さん、頑張れ~」カズが、カズの父を鼓舞した。
「カズ、優勝しても良いかい?」カズの父が、ひそひそと野心を漏らした。
「できるものならやってみろ」カズが、突っ込みを入れた。
「な~んてね! 一度言ってみたかったんだ」カズの父が、大きな声で言った。
「二度と言わないでね!」カズが、楽しそうに突っ込んだ。
「ハッハハハハ」明るく楽しく。それが、カズの父流の生きる術の身に付けさせ方だった。
「お母さん、落ち着いてね」響子が、部下に声をかけた。
「人の演奏を聞くのも勉強だからね。特に、先輩の演奏は、心して聴くように。滅多に聴けないから」部下が、響子にアドバイスをした。
「うん。お母さんも、自分のことを考えて」響子が、部下の心配をした。
「気合入れていくわよ~!」部下が、張り切った。
「弦太郎、他のピアニストの演奏を良く聴きなさい。勉強になるから」先輩が、弦太郎に声をかけた。
「お父さんの演奏も、楽しみにしています」弦太郎が、素直な気持ちを述べた。
「お父さんのは、良いんだ。負け犬の遠吠えみたいなものだから」先輩が、謙遜した。
「そんなこと思っていません。調律師ならではの味わいがあるはずだから」弦太郎が、真摯に答えた。
「口が上手くなったな。精一杯やるよ」先輩が、笑って、弦太郎の肩をポンと叩いた。
「はい」弦太郎が、嬉しそうに答えた。
一人の女性が、部下の元へ行って、
「あら、久しぶり」
と、声をかけた。
「ああ、貴方も出場するの?」部下が、少し憂鬱な表情を浮かべた。
「まだ、ピアノを弾いているのね?」
「調律師をしているの」
「調律師の分際で、なぜ、ピアノコンクールに?」
「……子供のためです」
「ハッハハハハ。子供のため! 精々楽しませてもらうわ」
女性が、笑いながら、去って行った。
「誰?」響子が、部下に聞いた。
「ピアニスト時代のライバル」
「調律師の分際って……酷いわ」
「仕方ないわ。逃げたんだから」
「そんなに自分を卑下しないで。調律師だって、素晴らしい仕事なんだから」
「そうね……」
ピアノコンクールが、始まった。
アナの父が、演奏を始めた。
「お父さん、カッコいいな……」アナが、惚れ惚れと聴き入った。アナの父は、左手の薬指がない分、個性的な音を奏でた。俳句には、「字足らず」というものがある。アナの父の演奏は、まさにその「字足らず」だった。九本の指で弾くので、どうしても、一音足らなくなった。それこそが、独特の味だった。「字足らず」を極めた俳人というのを聞いたことがない。しかし、アナの父は、まさにそれを極めていた。九本の指で、完全に音を極めていたのだ。
「お父さん、実は凄い人なんじゃ……」アナも、それに気付き始めていた。
続いて、カズの父が、登場した。
「お父さ~ん、期待してないから!」カズが、客席から、大声で叫んだ。
カズの父が、ステージ上で、椅子から転げ落ちた。
「ハッハハハハ」客席から、笑い声が起きた。
カズとカズの父が、満足そうに笑った。
カズの父は、一生懸命に演奏したが、何故だかコミカルな印象しか残らなかった。
次に、部下に声をかけた女性の番になった。
「流石、プロのピアニストだわ。上手い」響子が、女性の演奏に聞き惚れた。
「そうかしら? 何か無機質だわ」アナが、感想を述べた。
「無機質? アナは、不思議なことを言うのね」
「アナは、結構鋭いんだ」カズが、アナの肩を持った。
「ピアノ演奏には、その人の生き様が出る」アナが、断言した。
「ふふふ……生き様か」響子が、微笑んだ。
少し後に、部下が出番を迎えた。
部下が、真剣に演奏を始めた。
「音も全て合っているし、テキパキとしているけど、なんだか味気ないわ……」響子が、冷静に分析した。
「そうでもない」アナが、感想を述べた。
最後に、先輩の演奏が始まった。
「美しい音色ね」アナが、感激した。
「踊るような演奏だ」カズも、感想を漏らした。
しかし、ハプニングが起きてしまった。
先輩の演奏中に、会場が停電してしまったのだ。
「停電か?」会場が、どよめいた。
しかし、先輩は、演奏を止めなかった。先輩もオーケストラも、動揺をおくびにも出さず、音だけを頼りに演奏を続けた。よく聴くと、指揮者が、指揮棒で譜面台をメトロノームのように叩きながら、声で的確な指示を出していた。
観客が、息を呑んだ。とても澄んだ演奏で、暗闇に曲のイメージが、浮かび上がるような感覚だった。
「凄いわ……」アナが、感動した。
「……」弦太郎は、涙を流していた。
演奏が終わった。
電気が点いた。
頭を下げた先輩のシルエットが浮かび上がった。先輩は、満足そうに微笑んでいた。この状況で、むしろ燃えたように。
「プロだ」アナが、先輩の姿を見て思わず口にした。
割れんばかりの拍手が湧いた。
授賞式が始まった。
優勝したのは、調律師でない一般の参加者だった。
「あの方……お客さんですよね!」部下が、舞台袖で、先輩に声をかけた。優勝者は、先輩と部下が、調律を担当していたお客さんだった。
「そうですよ」先輩が、静かに答えた。
続いて、他の賞が授与された。
「簡単には行きませんね」先輩が、聴衆賞を受賞した。
「停電に負けませんでしたからね!」部下が、嬉しそうに告げた。
「停電だったからこその受賞でしょう」先輩が、冷静に分析した。
「初めて自分を褒めてあげたいと思いました!」カズの父が、ブービー賞をとった。
「今日のところは、このくらいにしてやる」アナの父は、何も受賞できなかった。
「お前、ビリだろう」カズの父が、アナの父を指差した。
「ビリじゃねえよ」アナの父が、逆ギレした。
「ハッハハハハ」
「調律師として、コンクールに臨むのも、気持ちの良いものですね」部下が、感想を述べた。
「活躍すると尚更ですよね!」カズの父が、ブービー賞のトロフィーを高々と掲げた。
「お前が言うな」アナの父が、突っ込んだ。
「ハッハハハハ」
「あの……」カズの父の元に、数組の親子が、声をかけた。
「やや、貴方方は……」カズの父が、驚いた。
音楽セラピーで一緒だったメンバーだった。
「今日は、楽しませてもらいました。ありがとうございます」
「いえいえ、素晴らしかったでしょう?」
「自分で言うな」アナの父が、カズの父に突っ込みを入れた。
「ええ、癒されました」音楽セラピーのメンバーが、微笑んだ。
「お役に立てて光栄です」
「では」
音楽セラピーのメンバーが、去った。
「お前も、役に立つんだな」アナの父が、感慨深げ。
「そういうこと」カズの父が、得意げに微笑んだ。
音楽セラピーのメンバーとは、カズの幼い頃、苦楽をともにした。その思いが、蘇った。本当に音楽セラピーに救われた。改めて、その思いを強くした。
ピアノコンクールの後、控え室の通路の端で、部下が、先輩と二人きりになった。
「先輩、以前、会員制クラブから女性と一緒に出て来られたじゃないですか?」部下が、切り出した。
「ああ……」先輩の歯切れが悪かった。
「お付き合いをされているんですか?」部下が、ズバリ聞いた。
「まさか」先輩が、即座に否定した。
「そうですよね?」
「まあ、ビジネスの相手です」先輩が、返事を考えた。
「……先輩は、私のことどう思ってますか?」部下が、先輩に思い切って尋ねた。
「どうって、大切な部下ですよ」先輩が、当たり前のように答えた。
「そうじゃなくて、女としてです」部下が、一歩踏み込んだ。
「……可愛い子だとは思います」先輩が、返事に窮した。
「付き合ってくれませんか?」部下が、一線超えた。
「僕には、妻子があります。君だって、夫がいるじゃないですか」先輩が、拒絶した。
「別れます」部下が、覚悟を口にした。
「……」先輩が、黙ってしまった。
「良いお返事を期待しています」部下が、控え室に消えて行った。
♪
ピアノコンクールが終わって、みんなで、打ち上げも兼ねて、食事会を開いた。
「イタリアンで良いですか?」アナの父が、幹事を務めた。
「良いよ~」カズの父が、ノリノリで答えた。
一行は、ほのぼの調律センターの近くのイタリアンレストランへ入って行った。
みんなが、テーブルを囲んだ。
「ウチだけ健常ね」響子が、お茶目に言った。そこには、偏見の色はなかった。
「健常が、少数派だね」アナの父も、声をかけた。
「ハッハハハハ」
「どうして、プロのピアニストにならなかったんだい?」アナの父が、部下に問うた。
「シングルマザーになったからです」部下が、正直に答えた。
「それで、娘さんに夢を託した、と?」アナの父が、響子を見ながら言った。
「はい。天才が生まれて来たので」部下が、隣の席の響子の頭を撫でた。
「お母さん……」響子が、顔をほころばせた。普段厳しい母からの愛情を垣間見た。
「活躍は、知っていましたよ」先輩が、部下に言葉をかけた。それほど、部下のピアニストとしての腕は、有望視されていた。
「本当ですか!」部下が、素直に喜んだ。
「家に、母のトロフィーが、いっぱい並んでいるんです」響子が、嬉しそうに言葉を発した。
「響子へのプレッシャーのためにね」部下が、お茶目に言った。
「ハッハハハハ」
先輩が、微笑みながら、立ち上がって、
「優勝したお客様から、お礼を頂きました」
と、高級ワインの差し入れをした。
「わ~」カズの父が、感激の声を発した。
「君のおかげだよ」先輩が、部下に声をかけた。部下の日頃の働きを認める発言だった。
「いえいえ、私なんて……」部下が、謙遜した。
「お注ぎしましょう」カズの父が、先輩からワインを受け取って、みんなのグラスに注いだ。
「子供に注ぐなよ」アナの父が、突っ込みを入れた。
「ハッハハハハ」
「それでは、私目のブービー賞を祝って、乾杯~!」カズの父が、乾杯の音頭をとった。
「祝うの、そこじゃないだろ」アナの父が、厳しく突っ込んだ。
「ハッハハハハ」
そこへ、アナの母とカズの母が、
「遅くなりました」
と、合流した。
「妻は、ダウン症の研究をしているんです」アナの父が、アナの母の紹介をした。
「ダウン症の研究ですか?」部下が、驚いて聞き返した。
「心臓病の専門です。アナの心臓病を治したくて」アナの母が、おっとりと答えた。
「そうでしたか」先輩が、興味を示した。弦太郎も、心臓病を抱えていた。
「お母さんは、いつも家にいないの」アナが、恨めしそう。
「仕方ないじゃないか。その分、お父さんが、一緒に遊んであげているだろう」アナの父が、アナを諌めた。
「まあ、そうだけど……」
「アナは、本当にお父さん子で」アナの母が、気恥ずかしそうに発言した。
「ハッハハハハ」
「うちのは、支援学校の教師をしていまして、アナとカズの担任でもあるんですよ」カズの父が、カズの母を紹介した。
「それじゃ、大変だ」部下が、お茶目に言った。
「そりゃもう大変ですよ!」カズの母が、戯けて見せた。
「ハッハハハハ」
「弦太郎くんは、ピアノは、長いのかい?」アナの父が、静かな弦太郎に質問した。
「我流ですが」弦太郎は、ピアノをしっかり習ったことはなかった。
「でも、良い感性を持っていますよね」カズの父が、ほろ酔いで、口を挟んだ。
「分かるかい?」先輩が、嬉しそうに声をかけた。
「いえ、分かりません」カズの父が、キッパリ答えた。
「コラ~」先輩が、珍しく突っ込みを入れた。お酒を飲んで、少し饒舌になっていたのだ。
「ハッハハハハ」
「いや、でも真面目な話、独特な感性がありますよね」アナの父が、フォローした。
「何か言いなさい」先輩が、弦太郎に促した。
「ありがとうございます……」弦太郎が、小さな声で答えた。
「寡黙なもので……」先輩が、弦太郎の肩に手を乗せた。
「男は、寡黙な方が良いですよ」普段から無駄に口数の多いカズの父が、分かった風なことを言った。
「お前が言うな」アナの父が、突っ込んだ。
「ハッハハハハ」
「お二人は、本当に仲が良いんですね」部下が、改めて、気持ちを込めて言った。
「僕らは、幼馴染で、アナとカズの縁で、再会したんです」アナの父が、答えた。
「はい」カズの父が、これまでの生活を思って、神妙な顔をした。
「カズのお父さんは、それはそれは優秀な野球選手だった」アナの父が、カズの父の武勇伝を話した。
「野球かよ! さっき感性がどうとか、偉そうに言ってたのに……」カズが、突っ込みを入れた。
「実はね」カズの父が、決まり悪そうにビールを一口飲んだ。
「野球選手の遺伝子を引き継いでいたんだ……それで音楽の才能がないのか……じゃ、どうして、プロ野球選手にならなかったの?」カズが、カズの父に質問した。
「……カズの障害が分かって、医師を目指したんだ」アナの父が、代わりに答えた。
「医師を!」カズが、素っ頓狂な声を発した。
「でも、結局、大学の医学部には行けなくて……その後、右往左往して、セラピーに行き着いた。カズが、発達障害だったからね。そして、音楽セラピーで、ピアノに傾倒して、調律師」アナの父が、スラスラと答えた。
「随分回り道をしたんだね」カズが、しみじみと言った。
「でも、ずっとカズのことを思っていたから、無駄はなかったと思うよ。実際、カズの障害は、随分改善された、らしい。カズの周りを回って、徐々に渦巻の中心に到達した感じ?」アナの父が、カズの父に同意を求めた。
「まあ、大体合っている」カズの父が、認めた。
「だから、ピアノでカズを笑顔にしたいんだよな」
「これからも精進するよ。今日のじゃ、ちょっと物足りなかったからね」
場が少し静かになった。
「お父さんは、どうして、調律師に?」アナが、アナの父に質問した。
「先輩の息子さんも、ダウン症だったから」実は、アナの父は、ダウン症つながりで、先輩と出会って、その影響で、調律師を目指した。
「懐かしいですね」先輩が、その頃を思い返した。
「それにね、子供の頃から、鍵盤ハーモニカが好きでね。薬指がなかったから、練習ばっかりしていて……そしたら、クラスで一番上手く弾けるようになったんだ。それからは、水を得た魚のようになって……調律師」アナの父が、静かに語った。
「へぇ~、障害をプラスに考えたのね」アナが、明るく答えた。
「そういうこと」
「もう一つ、話さなければならないことがありますね」先輩が、静かに言葉を発した。
「……ほのぼの調律センター、僕の祖父が、興した会社なんです」アナの父が、静かに語り出した。
「そうだったの?」アナが、驚いた。
「実はね……祖父には、『調律師にはなるな』って、言われて育った……薬指がなかったからかも知れないけど、祖父は、卑屈になっていたんだと思う。ほら、調律師って、日陰の職業って印象があるから」
「いっそのこと、プロのピアニストになろうとはしなかったの?」アナが、普段言いにくい質問を思い切ってした。
「一応、目指してはいたけど、この指だしね……」アナの父は、プロのピアニストを目指していた。だが、アナが産まれて、未練もなく辞めた。ただし、アナの父は、決して、アナのせいにはしなかった。ただ、アナの幸せを願うのみだった。
「アナ、お父さんの指を見て、何か気付かない?」アナの母が、アナに聞いた。
「何かって、何?」アナが、不思議そうに返事をした。
「左手の薬指」アナの母が、自分の薬指を見せた。
「あ、結婚指輪が……」アナが、それに気付いた。
「大人になって、それに気付いたんだ。それで、奥手になっちゃってね。そんな時、お母さんに出会って、強引に結婚」アナの父が、お茶目に言った。
「強引って、何よ!」アナの母が、怒った。
「ハッハハハハ」
「人の弱みって、プラスに考えると、強みになる。それを身をもって、体験したね。アナも、障害のこと、プラスに考えなよ」アナの父が、話をまとめた。
「そうする~。でも、お父さんって、普段、結婚指輪どうしているの?」アナが、アナの父に質問した。
「首から下げているんだよ。ほら」アナの父が、ネックレスに通した結婚指輪をチラリと見せた。
「へぇ~、知らなかったわ」アナが、感激した。
「子供たちは、夢とかあるのかな?」カズの父が、話を振った。
「私は、ピアニストです」響子が、テキパキと答えた。
「同じく」アナも、答えた。
「同じく」カズも、続いた。
「カズは、同じじゃないでしょ」アナが、突っ込みを入れた。
「あ、そうか」カズが、戯けて見せた。
「全く、主体性がないんだから」アナが、呆れた。
「僕は、海外で働きたいんだ」カズが、答えた。
「どうしてまた?」アナの父が、カズに聞いた。
「……アナが、世界で活躍したら、それを支えたいんだ」カズが、真剣に宣言した。
「ヒュー!」アナの父が、カズを茶化した。
「本気なんです」カズは、真顔だった。
「全く、主体性がないんだから」アナが、突っ込んだ。
「ハッハハハハ」
「弦太郎くんは?」アナが、弦太郎に聞いた。
「僕は、調律師に……」弦太郎が、控え目に答えた。
「主体性がないでしょう?」先輩が、少し呆れた。
「いえいえ」アナが、それを否定した。
「でも、ピアニストにはならないの? 毎週金曜日、支援学校の音楽室で、ピアノの練習をしているよね?」カズが、弦太郎に聞いた。
「……あ、はい。あれは、調律をさせてもらっているんです」弦太郎が、静かに答えた。
「音楽室のピアノの調律を?」アナが、驚いて聞き返した。
「はい……」
「もう調律とかできるの?」アナが、質問した。調律師の短期講座の時に、調律の勉強をしたが、実際に調律ができるとは思わなかった。
「一応……」
「凄いな」アナが、驚いた。
「それもまた、調律師の英才教育のためか……」カズも、弦太郎を尊敬した。
「そんなに立派なものじゃありませんよ」先輩が、謙遜した。
「でも、音楽室のピアノ、素晴らしい調律がなされています」響子が、弦太郎を褒めた。響子は、支援学校へ行ったときに、音楽室のピアノを弾いて、その調律の素晴らしさに気付いていた。
「ありがとう」先輩が、代わりにお礼を言った。先輩は、謙遜する訳でもなく、ありがとうと言った。そこに、弦太郎への信頼感が、表現されていた。
「……」弦太郎が、満足そうに顔を赤らめた。
「弦太郎が、調律師になりたいと言った時、妻が、泣いたんです……『お父さんの背中を追っているのね』って……同時に、ピアニストを目指さない悲哀を感じて……私にも、配慮してくれたんですね」
「調律師である父を誇りに感じています」弦太郎が、言い切った。
「良いじゃないですか!」アナの父が、先輩のグラスにワインを注いだ。
晩餐は進み、大人たちが、ほろ酔い加減になっていた。
「実はね……弦太郎は、ピアニストを目指しているんです」先輩が、酔った勢いで、口走った。
「そうなんですか!」アナの父が、驚いた。
「やっぱり」カズが、納得した。
「ピアノコンクールには、出ないんですか?」カズの父が、質問した。
「体のこともありますが、『お父さんには、叶わないから』って……」先輩が、残念そうに言葉にした。
「幼い時から、偉大な父を目の当たりにすると……ですね?」カズの父が、先輩に声をかけた。
「僕は、調律師という仕事に誇りを感じているんです!」弦太郎が、珍しく断言した。
「よく言った!」アナが、弦太郎を褒めた。
「嬉しいじゃないですか、先輩」アナの父が、微笑ましく言った。
「馬鹿野郎」先輩、涙を流して喜んでいた。
食事会が終わって、アナの父が、レジで、
「ほのぼの調律センター、飲食代で」
と、会計を済ませた。
「先輩大丈夫ですか? 飲み過ぎですよ」部下が、先輩の介抱をしていた。
「馬鹿野郎……自分の限界決めんなよ……」先輩は、珍しく深酒をしたが、まだ弦太郎のことを気にかけていた。
「すみません。タクシー拾って帰ります」弦太郎が、先輩を支えた。
「どうして、私に、電子チューナーを勧めてくれたんですか?」部下が、酩酊状態の先輩に尋ねた。
「……貴方のオーラみたいなものでしょうか。寸分の狂いもなく、音を聞き分けて、正確に調律できる……そう感じたからです」先輩が、真剣に部下の目を見た。先輩は、部下の特性を見抜いて、最善の調律を身に付けさせようとしてくれていた。
「買い被り過ぎですよ」部下が、笑った。
「そうでしょうか?」先輩が、微笑んだ。酔いつぶれていても、その目は鋭かった。
子供たちも、帰り支度をしていた。
「弦太郎くん、連絡先教えて」響子が、弦太郎に聞いた。
「あ、良いよ」弦太郎が、連絡先を伝えた。
「あ、私も教えて」アナも、交換した。
「僕も」カズも、参加した。
そうして、子供たちが、連絡先を交換し合った。そこには、障害も健常もなかった。ただ、素直に仲良くなりたいという気持ちだけがあった。
アナの父が、カズの元へ行って、
「カズくん」
と、声をかけた。
「はい」カズが、返事をした。
「これをもらってくれないか?」アナの父が、首から、結婚指輪を外して、カズに差し出した。
「そんな大事なもの、もらえませんよ」カズが、拒んだ。
「カズくんに持っていてもらいたいんだ」アナの父が、懇願した。
「……分かりました」カズが、結婚指輪を受け取った。
アナの家族が、夜、ナイトクラブに行った。
アナの父が、ピアノを演奏した。お客さんが、うっとりと聴き惚れた。
「ムードあるぅ」アナが、アナの父の演奏に感激した。
「ここでよくデートをしたのよ」アナの母が、昔を思い出した。
「そうだったんだ~」アナが、嬉しそう。
「ある日、お父さんが、初めて、このステージ上で、ピアノを演奏してね」アナの母が、照れ臭そうに語り出した。
「ほう!」アナが、話に食いついた。
「演奏を終えて、告られた」アナの母が、笑った。
「へぇ~」アナが、嬉しそうに話を聞いた。
「そして、席に戻って、指輪をくれたの」アナの母が、嬉しそうに思い出した。
アナとアナの母が、しばらく、アナの父の演奏に聞き入った。
「お母さん、あのね……私、お父さんの薬指が嫌いだった」アナが、おずおずと告白した。
「どうして?」アナの母が、少し微笑みながら聞いた。
「私も、障害児のくせに、変だよね?」アナも、少し微笑んだ。
「ううん。変じゃないよ。ごく自然なことよ」アナの母は、アナの言葉を肯定してくれた。
「でも、今日思ったんだ。本当に辛いのは、お父さんだし、薬指がないことは、卑下することじゃないって……」アナが、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「そうね。お父さんの長所だと思っている。薬指のおかげで、あんなに優しい人になったんだと思うよ」アナの母は、アナの父を心底愛していた。
「お父さんのこと、大好き」アナが、屈託のない笑顔を見せた。
「ハッハハハハ」
翌日、弦太郎が、弦太郎の母のお見舞いに行くことにした。
「私も付いて行って良い?」響子が、弦太郎に早速連絡をとって、それを知った。
「……良いけど、詰まらないと思うよ」弦太郎が、少し困惑した。
「そんなことない」響子が、強引に話を進めた。
「じゃ、良いけど?」弦太郎が、承諾した。
弦太郎と響子が、弦太郎の母に会った。
「まあ、可愛い子」弦太郎の母が、響子を見て言った。
「初めまして」響子が、挨拶をした。
病室が、微妙な空気になった。
「窓でも開けようかな」弦太郎が、気を利かした。
「そ、そうね。ごめんなさいね。気が利かなくて」響子が、慌てて答えた。
「いえ」弦太郎が、窓を開けた。
「あら」弦太郎の母が、思わず声を上げた。
机の上の譜面が、風で舞ってしまった。
「私が」響子が、すかさず拾い上げた。
「ありがとうね」
「いえ」
「本当に音楽が好きなんだね。入院中も熱心に」弦太郎が、半ば呆れた。
「お母さんの生命線よ」弦太郎の母が、優しく微笑んだ。
弦太郎と響子が、お見舞いを終えて、一緒に並んで帰宅の途に就いた。
「弦太郎くん、恋する気ある?」響子が、弦太郎に声をかけた。
「……恋? 僕、障害児だけど?」弦太郎が、驚いて聞き返した。
「そんなこと関係ない! 卑屈にならないで。それだけは約束して。弦太郎くんのこと、必ず守るから」響子が、真剣に告げた。
「……ありがとう。もちろんオッケー」弦太郎が、快諾した。
「良かった」響子が、満面の笑みを浮かべた。
4
弦太郎の自宅の庭でお茶会を開いた。アナ、カズ、弦太郎、響子と、四人の調律師が、参加した。
「それでは、お茶を点てますね」先輩と弦太郎が、お茶を点てた。
みんなで、先輩と弦太郎のお点前に見入っていた。
「ふふふ」アナが、突然笑いを堪えた。
「何笑っているの?」カズが、聞いた。
「これだけやって、作法が、八割がた間違っていたら、お面白いなと思って」アナが、お茶目に発言した。
「ハッハハハハ」みんなが、一斉に笑った。
「その意見も、あながち、間違っていないかも知れませんよ」先輩が、不敵に笑った。
「ふっ」弦太郎も、笑ってしまった。
そうして、お茶ができた。
「これ、差し入れです」アナが、季節の和菓子の差し入れをした。
「自分で作ったの?」響子が、驚いた。
「意外な趣味でしょ?」カズが、弦太郎と響子に声をかけた。
「へぇ~、美味しそう」響子が、感激した。
「味なんかどうでも……自己満足で良いのよ。自己満足で」アナが、みんなが食べる前に、弁解した。
みんなで、和菓子とお茶を頂いた。
「あら、和菓子もお茶も、とても美味しいです」響子が、感想を漏らした。
「演奏に日本人らしさが出ますから。それは、世界と勝負できる強みになります」先輩が、子供たちを諭すように発言した。
「弦太郎くんのお父さんは、世界を見据えているのね」響子が、感無量といった様子。
「僕なんて、まだまだだよ」弦太郎が、謙遜した。
「風流よのう」アナが、カズの和菓子も食べた。
「あ、食べたな!」カズが、慌てた。
「ハッハハハハ」
♪
支援学校の進路相談の時期になった。
アナが、教室で、担任のカズの母に呼ばれた。
「アナは、進路どうする?」カズの母が、砕けた様子で、アナに聞いた。
「ピアニストも捨て難いけど、調律師が良いです」アナが、進路を語った。
「お父さんと一緒?」カズの母が、ほのぼのと答えた。
「はい」
「本当にピアニストは目指さないの?」カズの母が、一応聞いた。
「……障害児だから」アナが、俯いて答えた。
「アナらしくないなぁ。気にしなくて良いよ。ピアノの音色に障害も健常もない」カズの母が、アナを鼓舞した。
「そうですけどねぇ……」アナが、煮え切らない様子。
「ま、卒業まであと二年あるから、よく考えて」カズの母が、話をまとめた。
「はい」
「じゃ、これから、カズの進路相談だから」カズの母が、話を切り上げた。
「先生も大変ですね」アナが、同情した。
「多分アナと一緒って言うんだろうなぁ」
「そうですね」
「ハッハハハハ」
アナが、退出して、カズが、教室に入って行った。
「カズは、進路どうする?」カズの母が、カズに聞いた。
「アナは、何志望?」カズが、早速主体性のないことを言った。
「ピアニストだって」カズの母が、ぶっきらぼうに答えた。
「じゃ、僕も」
「本当に主体性がないな。アナは、調律師だって」カズの母が、本当のことを伝えた。
「じゃ、僕も」
「ハッハハハハ」
「どっちだ」
「アナと同じで」カズが、すがるように答えた。
「アナが、好きなの?」カズの母が、呆れて聞いた。
「……はい」カズが、意外にも正直に答えた。
「ほ、本当なの?」カズの母が、驚いた。
「はい……」
「珍しく自分の意見を言ったな……うん、応援するぞ」カズの母が、満足そうに言った。
「お願いします」
「進路は?」カズの母が、もう一度聞いた。
「アナと一緒で……」カズは、最後まで主体性がなかった。
弦太郎は、高等部三年生なので、父兄も呼ばれた。弦太郎の進路相談には、先輩が、来てくれた。
「父と同じ調律師になりたいんです」弦太郎が、担任の先生に告げた。
「お父さんも、それで良いですか?」先生が、先輩に確認した。
「ピアニストを目指して欲しいんですがね」先輩が、一応希望を述べた。
「弦太郎、どうする?」先生が、弦太郎に確認した。
「お母さんも、調律師で良いって……」弦太郎が、小さな声で伝えた。
「お母さんが?」先輩が、少し驚いた。
「うん。僕の好きなようにすれば良いって」弦太郎が、弦太郎の母の言葉を伝えた。
「そうか」先輩が、腑に落ちた様子。
「お母さんにも良いとこ見せたいから」弦太郎が、少し微笑んだ。
「良いとこあるじゃないか」先生が、弦太郎の様子に心打たれた。
「いえ……正直、ピアニストじゃ、活躍できないかも知れないし」弦太郎が、控え目に言った。
「後ろ向きな発言だが、先生には、判断つかないな。お父さんから見て、弦太郎は、ピアニストになれそうですか?」先生が、先輩に質問した。
「可能性はあると思います。ただ、弦太郎の選んだ道を歩ませたいので。後悔しても、最悪自分で決めたという誇りを持てますから。あとは……心臓のこともありますし」先輩が、言い淀んだ。
弦太郎の心臓病は、今の医学では根治手術ができなかった。弦太郎の心臓が、大勢の観客の前で演奏することに耐えられるか。先輩は、健康に産んであげられなかったことで、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「そうですか」先生が、弦太郎の様子を見て、納得した。
♪
近所の廃校を利用して、ダウン症児の親の会が、開催されていた。親の会は、隔週で行われて、ダウン症児とその家族が、集まって、レクリエーションなどを楽しんでいた。
アナとアナの父が、久しぶりにダウン症児の親の会に参加することにした。
「久しぶりだな~」アナの父が、道中、感慨深そうに言った。
「もう親の会の記憶がないわ」アナも、最後に親の会に参加した時のことを思い出せないほどだった。
アナとアナの父が、親の会の教室に入って行った。
「ああ、弦太郎くん」アナの父が、弦太郎に気付いた。
「あ、どうも」弦太郎が、受付の手伝いをしていた。
「あら、響子じゃない!」アナが、響子の存在にも気付いた。
「時々遊びに来ているの」響子が、照れ臭そうに言った。
「手伝ってくれているんだ」弦太郎が、フォローした。
「ダウン症のことを知りたくて」響子が、顔を赤らめた。弦太郎に会いに来ているのは、明白だった。
親の会では、弦太郎が、電子キーボードを使って、ダウン症児に演奏を教えていた。
「弦太郎くん、毎週教えているの?」アナが、弦太郎に聞いた。
「いや、流石に時々だけどね。調律師の専門学校に入るための勉強もあるし」弦太郎が、演奏をしながら、答えた。
「そうか。試験があるもんね」アナが、納得した。
「アナちゃんも、調律師になるなら、頑張らないと」弦太郎が、アナの心配をした。
「そうね」アナは、勉強が大の苦手。しかし、調律師になるなら、避けては通れない道だった。
親の会の最後に、弦太郎が、電子キーボードで、一曲披露した。
「うま~い!」ダウン症児たちが、感激した。
「素晴らしい光景だわ」アナが、感銘を受けた。そこは、まるでユートピアのようだった。
♪
アナとカズが、支援学校の授業の合間に、談笑していた。
「今度、弦太郎くんと響子を連れて、どこかに遊びに行こうよ」アナが、提案した。
「恋のキューピッドになるという公算だね」カズが、嬉しそうに乗り気になった。
「そうだ、今度バレンタインデーじゃん。その日に、遊園地にでも行こうよ!」アナが、思い付いた。
「良いじゃん、それ!」カズは、相変わらず、主体性がなかった。
そうして、アナとカズ、弦太郎と響子のWデートが決まった。
バレンタインデーになった。
アナとカズが、弦太郎と響子を誘って、遊園地へ行った。
「今日はバレンタインデー。響子と相談して、手作りチョコレートを作ったんだ。女子からのプレゼントよ」アナが、響子と目を合わせた。
「じゃ~ん」響子が、弦太郎に向かって、照れ臭そうにチョコレートを差し出した。大きなハート形をしていた。
「僕に?」弦太郎が、少し戸惑った。人生初の女子からのバレンタインチョコレートだった。
「どうぞ」響子が、弦太郎に促した。
「ありがとう」弦太郎が、チョコレートを受け取った。
「お前には、これだ」アナが、カズに小さなチョコレートを差し出した。
「なあに、その言い方……素直じゃないんだから」響子が、アナの腕を指で突いた。
「お腹壊さないだろうな」カズが、警戒した。
「この野郎!」アナが、カズに蹴りを喰らわした。
「ハッハハハハ」
そうして、アナとカズ、弦太郎と響子のWデートが、開演した。
「何乗る?」カズが、リード役を引き受けた。
「やっぱりコーヒーカップとかメリーゴーランドが良いんじゃないか?」アナが、答えた。
「相変わらず、怖いの苦手だよね」カズが、アナに突っ込んだ。
「お淑やかなんだよ」アナが、照れ臭そうに粋がった。
「ハッハハハハ」
そうして、四人は、Wデートを楽しんで、帰宅の時間が迫った。
「最後に、観覧車に乗りたい」アナが、言い出した。
「四人で乗れるし、そうしようか」カズも、賛同した。
そうして、四人で観覧車に乗った。
「調律が結んだご縁だね、この四人」アナが、しみじみと言った。
「珍しいよね、調律師」響子が、お茶目に発言した。
「ハッハハハハ」
「アナのお父さん、優しそうだよね」響子が、父のいない寂しさを口にした。
「そうでもないよ」カズが、空気を察して、代わりに答えた。
「お前が言うな」アナが、突っ込んだ。
「ハッハハハハ」
「カズのお父さんは、優しいでしょ?」響子が、今度は、カズに聞いた。
「うちのお父さんは、あのまんま」カズが、おちゃらけた。
「ハッハハハハ」
「分かる気がする」響子も、それを認めた。
「ハッハハハハ」
「弦太郎くんのお父さんは?」アナが、弦太郎に質問した。
「……あのまんま」弦太郎が、珍しく冗談を言った。
「ハッハハハハ」
「どのまんまよ」アナが、嬉しそうに突っ込んだ。
「ハッハハハハ」
「響子ちゃんのお母さんは?」カズが、響子に聞いた。
「……」響子が、暗い顔をして、俯いてしまった。
「……ん?」アナが、その異変に気付いて、困った顔をした。
「この前、お母さん、泣きながら帰って来たの」響子が、声のトーンを落として、神妙な顔をした。
「どうして?」カズが、親身になって聞いた。
「お客さんのお子さんが、コンクールで活躍できなかったのは、調律のせいだって、叱られて……」響子が、泣きそうになった。
「そんな……」アナが、ひどく動揺した。
「お母さん、卑屈になってしまった」響子が、泣き出した。
「ベシ!」アナが、カズの頭を引っ叩いた。
「痛!」カズが、驚いて、頭を撫でた。
「……お母さん、私のせいで、プロのピアニストになる夢を捨てて……それなのに、調律師になっても、こんな風になってしまって……だからお母さんが好き」響子が、最後は、精一杯強がりを言った。
「うちのお父さんも、本当は、私がダウン症だったから、プロのピアニストを諦めたんだと思う」アナは、アナの父がプロのピアニストを諦めた理由を悟っていた。
「僕のお父さんも、僕のために、野球を辞めて、調律師になった……」カズも、元気なく言葉を紡いだ。
「うちも、同じようなものだな……」弦太郎も、しみじみと呟いた。
アナが、立ち上がって、
「四人の調律師の人生に光を当てたい!」
と、叫んだ。
部下だけでなく、アナの父、カズの父、先輩も、一見すると、裏方の調律師という仕事に就いて、思うところはあるだろう。それに、大げさかもしれないが、家族のために人生を狂わせてしまったとも言えた。だからこそ、子供たちの力で、何とかしてあげたかった。この気持ちは、子供たちからの調律師の親への心からのエールだった。
「おい、アナ!」観覧車が揺れて、カズが、驚いた。
「ハッハハハハ」
「コントみたいね」響子が、涙を拭った。
「本気だよ。あの四人のために、調律師たちのピアノコンクールを開催する! 調律師にしかできないピアノ演奏があるはずだ!」アナが、高らかに宣言した。
観覧車が終点に着いて、四人が降りた。乗る前とは、別人のようだった。四人の目は、意気込みに満ち溢れていた。
翌日以降、アナが、
「なんとしても、実現しよう!」
と、調律師たちのピアノコンクールを開催する運動を始めた。カズ、弦太郎、響子も、アナに付いて行った。
「何から始めようか?」響子も、乗り気だった。
「やっぱり、まずは、出場するお父さんとお母さんに話してみよう」アナが、リードした。
「確かに」カズも、その意見に賛成だった。
四人が、ほのぼの調律センターへ足を運んだ。
「皆さん、お話があります」アナが、改まって、話を始めた。
「堅いぞ~」カズが、アナをリラックスさせた。
「先のコンクールでは、調律師が、活躍して、喜ばしい限りでした。そこで、いつの日か、調律師たちのピアノコンクールを作ってみたいんです。どうぞ、お力をお貸しください」アナが、提案を口にした。
「良いじゃん」カズの父が、賛同した。
「応援するわ」部下も、興味を抱いた。
「うん」先輩も、頷いた。
そうして、順調過ぎるほど順調に、調律師たちのピアノコンクールが、始動した。
以降、アナ、カズ、弦太郎、響子が、調律師たちのピアノコンクールの実現に向けて、活動を続けた。
「いつの日か、世界中の調律師の集まるピアノコンクールを開催するんだ!」アナの鼻息が荒かった。
アナ、カズ、弦太郎、響子は、時々、調律師のピアノコンクールの準備のために、ほのぼの調律センターにお邪魔していた。
「アナちゃん、調律師ってのは、確かに裏方の仕事だけど、調律っていうのは、結構な晴れ舞台なんですよ」先輩が、しみじみとアナに話しかけた。
「確かに、コンクールのピアノの調律とか、やりがいがありそうですね」アナが、意気揚々と答えた。
「お客様の自宅のピアノの調律もね」
「そうなんですか?」アナが、不思議そうに聞いた。
「良い調律をして、お客様の笑顔を見られて、自分の家族を養う。これが、幸せでなくて、何でしょうか」先輩が、諭すように告げた。
「なるほど」アナも、合点がいった。
「大好きなピアノに携わって、生活できるんですから」先輩は、本当にピアノが大好きだった。
「調律師って、良いですね」アナが、調律師にも、興味を示した。
「確かに、お客さんに怒られたりもしますがね」先輩が、温和に愚痴をこぼした。
「ハッハハハハ」
「お父さんも、良く嘆いています」アナも、アナの父の様子を話した。
「もっとも、ピアノを弾くのも大好きですから、調律師たちのピアノコンクール、楽しみにしていますよ」先輩が、嬉しそうにアナを鼓舞した。
「必ず成功させて見せます」アナが、気合を入れた。
♪
一方、ほのぼの調律センターの経営は、相変わらず、なかなか上手くいっていなかった。
「何か起爆剤が欲しいな……」カズの父が、意見を述べた。
「子供たちのやろうとしている、調律師たちのピアノコンクールというのは、起爆剤になりませんかね?」アナの父が、アナの活動に言及した。
「ほのぼの調律センターのお客様のほとんどが、お子さんですからね……」先輩が、冷静に意見した。
「子供たちにピアノコンクールで活躍してもらうというのは?」部下が、思い付いた。
「ああ、良いかも知れませんね」アナの父が、その意見に賛同した。
「良いでしょう」先輩も、乗ってくれた。
「次の大会、手塩にかけて臨みましょう」部下が、嬉しそうに微笑んだ。
「ただし、前回のピアノコンクールを見る限り、子供たちには、足りないものがある」先輩が、静かに言葉にした。
「生きる術ですね」アナの父が、答えた。
「コンクールに出て、活躍するには、井の中の蛙じゃ、ダメってことですね?」カズの父も、意見を述べた。
特に、アナ、カズ、弦太郎は、障害児として、幼い頃から、隔離されるように育てられたので、社会の荒波にもまれることがなかった。健常の響子もまた、ピアノしか知らないような人生を送っていた。
「その点を、心しておきましょう」先輩が、忠告した。
「具体的には、どうすれば……?」部下が、質問した。
「僕らが、一生懸命指導するしかないっしょ!」カズの父が、元気よく答えた。
「そうだな」アナの父も、その意見に賛同した。
「分かりました!」部下が、勢いよく返事をした。
こうして、子供たちが、調律師である親の人生に光を当てることを願って、親が、子供たちに生きる術を身に付けさせることを誓った。ともに、ピアノコンクールという最高の晴れ舞台で。
以来、四人の調律師が、子供たちのピアノの指導に熱を入れた。
アナの父が、アナのピアノのレッスンをした。
「アナ、頑張って。ほのぼの調律センターの命運が、かかっているんだ」アナの父が、正直に伝えた。
「責任重大ね」アナが、ことの重大さに気付いた。
「でも、リラックスしてね」アナの父が、アナに優しく声をかけた。
「はいよ~」アナが、ピアノの演奏に集中した。
カズの父とカズが、自宅の前の道路で、グローブをはめて、キャッチボールをした。
「楽しいね!」カズの父が、ボールを投げた。
「やっぱりお父さん、上手いや!」カズが、カズの父のボールを受けた。
「だろう」カズの父が、満足そうに微笑んだ。
「ハッハハハハ」
先輩が、弦太郎を連れて、弦太郎の母の見舞いに行った。
「今度、弦太郎をピアノコンクールに出場させようと思うんだ」先輩が、切り出した。
「あら、聴いて見たいわ」弦太郎の母も、受け入れてくれた。
「早く良くならないと」先輩が、優しく弦太郎の母に言葉をかけた。
「そうね」弦太郎の母が、寂しそうに微笑んだ。
「……僕、調律をしてみたいんだけど」弦太郎が、意外なことを口にした。
「コンクールのピアノのか?」先輩が、聞き返した。
「はい」弦太郎は、演奏者としてコンクールに参加するのではなく、コンクールのピアノの調律をしたいと申し出たのだ。もちろん、コンクールのピアノを調律した人物が、そのコンクールに参加することは考えられなかった。
「どうしてまた?」
「もうすぐ卒業でしょ。最初で最後のチャンスだと思うんだ。支援学校時代にコンクールの調律をするのって」弦太郎の意見は、至極真っ当なものだった。
「それはそうだが……」先輩が、少し思い悩んだ。
「みんなの演奏を支えたいんだ。それを僕の将来にも生かしたい」弦太郎が、熱弁を振るった。
「よく考えての答えなんだな?」先輩が、弦太郎の目を見て、問うた。
「はい。僕は、ピアニストより、調律師の道を選ぶ」弦太郎が、断言した。
「よし、良いだろう。手配しておく」先輩が、胸を張った。
「できるの?」弦太郎が、驚いて聞いた。
「できる」
「お願いします」
「良かったね、弦太郎」弦太郎の母が、微笑んだ。
部下が、自宅で、響子の指導をした。
「電子チューナーで、調律しておいたから」部下が、満足そうに告げた。
「どうなるの?」響子が、質問した。
「音が安定する」部下が、キッパリと説明した。
「そうなんだ~」響子が、素直に練習に励んだ。
響子が、少しピアノを弾いて、すぐに、
「本当だ。音のバラツキが、ほとんどないわ!」
と、感激した。
「でしょう」部下が、自慢げに笑った。
アナ、カズ、響子が、アナの自宅で、ピアノの練習をした。
「上手く弾けない……」アナが、ピアノを弾きながら、涙を流した。
「アナ……楽譜通りじゃなくて良いんだよ。アナの演奏には、気持ちがこもっている。そんなこと、私にはできない」響子が、アナを勇気づけた。
「……気持ち?」
「そう。ピアノに対する思いかな? カズにも、それは感じる。もしかしたら、障害があるってことが、そうさせているのかも知れない」
「障害か……」アナは、ずっと障害に苦しめられて来た。
「障害をプラスに捉えなよ。そうすれば、何かが変わる」
「……そうしてみるわ」
「さ、練習練習」響子が、アナとカズを鼓舞した。
「そうこなくっちゃ!」カズも、アナを奮い立たせた。
こうして、アナ、カズ、響子が、努力を重ねて、メキメキと上達した。
5
子供たちのピアノコンクールが、近くなった。
「そろそろ、参加手続きに行こうか?」響子が、アナとカズを誘って、ピアノコンクールの参加の手続きへ行った。
「障害児は、お断りしています」コンクール担当者が、驚くことを言い放った。
「え……?」アナが、動揺した。
「参加者が多く、前回も、あまり活躍されなかったので……」担当者の歯切れが悪かった。
「何を言っているの?」響子が、アナとカズのために、担当者に凄んだ。響子には、以前の障害をさげすむような姿はなく、心の底から、それを応援して、力になることを誓った覚悟があった。
「響子……」アナが、響子の姿に目を細めた。
「ふふふ……」悪田が、木陰でほくそ笑んでいた。実は、Rチューニング株式会社の社長が、手を回して、障害児を締め出そうとしていたのだ。
響子が、部下に電話をかけて、
「あ、お母さん……障害のある子は、ピアノコンクールに参加できないって言われたの!」
と、相談した。
「ありがとうね、響子」カズが、お礼を述べた。
「待っててね。今、お母さん来るから」
「うん」アナが、涙を拭った。
しばらくして、部下が、駆け付けて、
「障害児だけ締め出すなんて、正気の沙汰じゃありませんよ!」
と、交渉した。部下は、アナとカズのために戦ってくれた。
「……では、予選がありますので、そちらに参加してください」担当者が、根負けした。
「公正に審査しなさいよ!」部下が、ドスの利いた声を発した。
「はい……」担当者が、小さく返事をした。
「ありがとう、お母さん」響子が、部下にお礼を述べた。
「全く! 障害児を何だと思ってんのよ!」部下の腹の虫が、まだ治らなかった。
「意地でも、活躍するよ!」響子が、アナとカズを鼓舞した。
「うん!」アナが、気合を入れた。
「おう!」カズも、同じく返事をした。
こうして、今の世の中、障害児者を守ってくれる人が現れ始めた。それは、とても心強く、頼りになった。全ては、これまでの障害児者の努力の賜物だった。
アナが、自宅に帰って、アナの父と夕食を食べた。
「そうか、予選か」アナの父が、ことの顛末を聞いた。
「酷いと思わない?」アナが、同意を求めた。
「でも、参加者も多かったんだろう?」アナの父は、公平に考えた。
「それはそうだけど、障害児はダメって……」アナが、少し落ち込んだ。
「障害児は、ハンデがあるよね。だから、社会は、厳しく接する。そうして、強くなっていくんだよ」アナの父が、諭すように言った。
「屁理屈だわ」アナが、突っぱねた。
「社会は、思ったより上手くできているんだ」アナの父が、アナを説得した。
「そんなものかしら?」アナは、納得いかない様子。
カズは、カズの父と一緒に居間でゴロゴロしていた。
「最初、障害児はダメって言われたけど、予選に参加できるようになったんだ~」カズが、呑気に報告した。
「一回多く弾けるじゃん!」カズの父が、ポジティブに言った。
「だよね~! 響子と響子のお母さんは、プンプンしてたけど、予選を通過すれば、本選に行けるから」カズも、前向きだった。
「頑張れよ~」
「もちろん、予選優勝を目指すよ」カズが、男らしく宣言した。
「狙うのは、そこじゃないぞ」カズの父が、突っ込みを入れた。
「分かっているって」カズが、微笑んだ。
「ハッハハハハ」
響子の家では、部下が、響子のピアノのレッスンをしていた。
「あれだけ啖呵を切ったんだから、間違っても、予選敗退なんてなしだからね」部下が、響子にハッパをかけた。
「お母さんのためにも、頑張るわ」響子が、健気に答えた。
「さ、練習練習!」
「はい!」響子の練習に身が入った。
部下と響子は、珍しく息が合っていた。
♪
子供たちのピアノコンクールの予選の日になった。会場は、市民ホールで、ステージ上には、ピアノが一台置いてあった。観客は百人ほどで、まばらだった。参加者は、五十名だった。
「予選、凄い人だね~」アナが、しみじみと周りを見渡した。
「これじゃ、確かに障害児を締め出したくもなるね」カズが、後ろ向きな発言をした。
「いや、ならんだろう」響子が、突っ込みを入れた。
予選が、始まって、子供たちが、次々と演奏をした。
「障害になんて負けないから」アナが、演奏を始めた。
「目指せ、予選優勝!」カズが、鍵盤に情熱を注いだ。
「アナ、カズ、見てなさい。無念は、私が晴らすわ。お母さんも、ありがとう。気持ちは、無駄にはしない!」響子も、奮闘した。
そして、結果発表。
アナ、カズ、響子が、予選を通過した。
カズが、予選一位だった。
「お父さん、やったよ! 予選優勝!」カズが、カズの父に向けて、ガッツポーズをした。
「凄いじゃないか!」カズの父が、カズを褒めた。
「カズ、頑張ったじゃん」響子も、カズを称えた。
「僕は、やればできるんだ」カズが、自慢げに言い放った。
「じゃ、普段からやれよな」アナが、突っ込んだ。アナも、カズが予選を首位通過して、嬉しそうだった。
「さ、本選だよ!」響子が、勝って兜の緒を締めた。
「チッ」悪田が、苦々しく見つめていた。
♪
子供たちのピアノコンクールの本選が近付き、ほのぼの調律センターで、三人の壮行会が、催された。
「落ち着いて、弾くんだよ」アナの父が、アナに声をかけた。
「うん、頑張る」アナが、素直に答えた。
「本選も優勝しちゃえ!」カズの父が、カズを勇気付けた。
「それは無理!」カズが、否定した。
「優勝あるのみ!」部下が、響子を鼓舞した。
「うん、優勝目指すわ」響子が、素直に答えた。
大会当日の朝になった。
「アナさん、ハムスターの調子が悪いんです」アナの元に、生物部の部員から、連絡が入った。生物部のハムスターの具合が良くなかったのだ。
「すぐに行くから」アナが、返事をした。
アナが、カズに連絡をして、二人で、生物部の部室へ駆け付けた。
「ちょっと、よくない状況ね……」アナが、ハムスターの状態を見て、呟いた。
「アナ、ピアノコンクールの時間になるよ」カズが、心配した。
「でも……」アナが、ハムスターが気がかりだった。
「ハムスターは、私たちが看ますから、コンクールに集中してください」部員が、アナに声をかけた。
「ありがとう……」アナが、後ろ髪を引かれた。
「先生も、後で行くから」カズの母も、声をかけてくれた。
「はい」
アナとカズが、生物部の部室を出て、ピアノコンクールの会場に向かった。
コンクール会場は、県民ホールで、ステージ上には、ピアノが一台。観客は三百人ほどだった。参加者は、二十名だった。
開場前、ステージ上では、弦太郎が、ピアノの調律をしていた。
「そうだ、良い調子だ」先輩が、弦太郎の調律を見守っていた。
「このくらいで、どうですか?」弦太郎が、先輩に意見を請うた。
「そうだな……」先輩が、鍵盤を叩いて、調律の具合を確かめた。
「……」弦太郎が、それを見守った。
「良いだろう」先輩が、ゴーサインを出した。
「はい」弦太郎が、ホッとして、調律の道具をしまった。
アナ、カズ、響子が、衣装を着替えて、控え室に集まった。
「緊張する~」カズが、開口一番、言い放った。
「何のプレッシャーもないくせに」アナが、一言多かった。
「ひでーな」カズが、少し恨み節。
「響子を見ろ。あれが、プレッシャーと戦う顔だ」アナが、カズに伝えた。
「こうして見ると、案外タイプ」カズは、真剣味がなかった。
「……救いようのない奴だな」アナが、ジェラシーをあらわにした。
ピアノコンクールが開演して、子供たちが、順次、演奏を始めた。
「なんとしても優勝するぞ!」響子が、気合を入れて、演奏に向かった。
響子が、力強く演奏した。
「うん。良い感じ」アナが、控え室で、響子の応援をした。
カズの順番が、近付いた。
「予選で優勝したから、多くは望まない」カズが、変な気合を入れて、控え室の椅子から立ち上がった。
「望めよ」アナが、一言突っ込んだ。
カズは、そこそこの演奏をした。
ここで、あの悪田の演奏になった。
デタラメかつ強引な演奏だった。
「あれは、酷いですね……」先輩が、ステージの脇で、思わず顔をしかめた。
続いて、アナの演奏になった。
「お父さんの思いは、伝わっているよ。ただ……まだ上手く弾けないや」アナは、トラウマと戦っていた。普段は気にしていなくても、こうして、コンクールの舞台になると、強く感じてしまった。
そして、アナが、これから演奏の佳境に入ろうとした瞬間、ハプニングが起きた。無惨にも、ピアノの弦が一本切れてしまったのだ。
「あっ」会場から、言葉が漏れた。
しかし、アナは動じなかった。いち早くそれに気付き、一音外して、演奏を続けた。奇妙なメロディーになってしまったが、その機転に、会場が湧いた。
アナの父は、薬指がなくても弾けた。だったら、弦の一本や二本、なくたって弾けるはずだ。アナには、確信があった。アナの父のように魅せられるはずだと。
「アナ……」アナの父の頬を一筋の涙が伝った。
「友と家族のために弾くんだ!」アナが、ステージ上で吠えた。
そして、演奏が終わった。
アナは、満足そうに笑っていた。
満場の拍手がアナを包んだ。
アナが、退場を始めた。
「弦を張り替えて、もう一度弾きますか?」コンクールの担当者が、申し訳なさそうに、アナに聞いた。
「お腹が空いてもう弾けません」アナが、お茶目に答えた。
「ハッハハハハ」
「……普通、あんなことできないよね?」響子が、控え室で、カズに同意を求めた。
「ああ、驚いた」
「アナって、天才だ……」響子は、半ば放心状態だった。
「間違いなく」実は、カズは、昔から、アナの潜在能力に薄々気付いていた。
「でも、これ……障害児を快く思わない人がやったんじゃ……?」響子が、勘ぐった。
「いや、調律したのは、弦太郎くんだから」カズが、それを否定した。
授賞式の時間になった。
優勝したのは、響子だった。
「アナ、カズ、弦太郎さん……ありがとう。三人のおかげです。色んなことに負けないでね。素晴らしい刺激をもらったから。そして、もちろん、お母さんと会社の皆様のおかげでもあります。本当にありがとうございます」響子が、お礼のスピーチをした。障害、とは言わなかったが、アナ、カズ、弦太郎に配慮した内容だった。
「響子……」アナが、ホロリとしてしまった。
アナ、カズ、弦太郎は、響子が、障害を認めてくれたようで、とても嬉しかった。
「先輩、電子チューナーの調律のアドバイス、ありがとうございました」部下が、客席の先輩にお礼を伝えた。響子の優勝の一端は、電子チューナーが握っていたのだ。
「いえいえ、でも、これからは、響子さんも、ステップアップが必要になるでしょう」先輩が、またもアドバイスをしてくれた。
「ステップアップ?」部下が、先輩に聞き返した。
「自分で考えることです」先輩が、短く言った。
「……はい」部下が、所在のない返事をした。
「期待していますよ」先輩が、最後に言った。
「はい……?」部下は、正直何が何やら分からなかった。
授賞式は、続いた。
アナが、聴衆賞をとった。あの機転が、高評価を得た。
「お父さん、やったよ!」アナが、ステージ上で、飛び跳ねて喜んだ。少しだけトラウマから這い出ることができたような気がした。
「アナ、おめでとう。この天才ピアニストが!」響子が、嬉しそうにアナを激励した。
「なあに、天才って!」アナは、自分の凄さに気付いていなかった。
授賞式が、終わった。
弦太郎は、アナの受賞を素直に喜べなかった。
「弦のチェックが甘かったです。すみませんでした」弦太郎が、アナの元へ行って謝った。
「調律師あってのピアニストだから……それに、二度とできない演奏ができました。それが、一番だと思いますよ。お客様とは、一期一会ですから」アナが、静かに言葉を紡いだ。
「ありがとう」弦太郎が、お礼を言った。
「それに、なんだか、吹っ切れたような気がするの。やっぱり逆境が好きなのかしら?」アナは、障害児として苦労して来たので、いつしか、その中で輝く術を身に付けていた。
「……」弦太郎は、一人、ステージ上のピアノの脇で、立ちすくんでいた。
「仕方ない」先輩が、弦太郎の元へ行った。
「お父さん、悪田の演奏が……」弦太郎は、悪田の演奏に納得できなかった。おそらく、あの悪田の強引な演奏が、弦の負担になったのだ。先輩と弦太郎だけは、それに気付いていた。
「それは、言いっこなしだよ」先輩が、キッパリと声をかけた。
「……はい」弦太郎が、悔しそうに俯いた。
「仕方のないことだよ」先輩が、もう一度、弦太郎に声をかけた。
アナとカズは、家族と喜びを分かち合っていた。
「それじゃ、この辺で」アナが、足早に会場を後にしようとした。
「僕も」カズも、それに続いた。
「もう帰るのかい?」アナの父が、アナを呼び止めた。
「ハムスターの看病をしないと!」アナが、大きな声で言った。
「一緒に行くわ」カズの母も、生物部の顧問として、一緒に行くことにした。
アナ、カズ、カズの母が、急いで、支援学校へ向かった。
アナが、生物部の部室に着いて、
「大丈夫?」
と、部員に声をかけた。
「なんとか持ちこたえていますが……」部員が、心配そうに返事をした。
「そうか……」アナも、心配した。
「アナさん、コンクールの結果は?」部員が、アナに期待を込めて聞いた。
「聴衆賞をとった」アナが、報告した。
「凄いじゃないですか」部員が、素直に喜んだ。
「それどころじゃなかったから」アナが、冷静に答えた。演奏中も、ハムスターのことが気になっていたのだ。その最中のあの機転だったのだ。
「僕には、聞かないの?」カズが、寂しそうに聞いた。
「なんかの賞、とったんですか?」部員が、投げやりに聞いた。
「何も」カズが、得意げに答えた。
「しっかりして!」アナが、カズの返事に食い気味に、ハムスターに声をかけた。
ピアノコンクール会場では、部下、響子、弦太郎が、響子の優勝の余韻に浸っていた。
「今更、父親面をする気はないが、響子の勇姿を一眼見たくて……」響子の父が、コンクール会場に姿を現した。響子の父は、一時帰国していた。
「お父さん!」響子が、響子の父に抱きついた。
「嬉しいな。覚えていてくれたか」響子の父が、再会を喜んだ。
「紹介する。弦太郎くん。彼氏よ」響子が、響子の父に弦太郎を紹介した。
「いつもラジオ聴いています」弦太郎が、ラジオに言及した。
「あ……どうも」響子の父が、お礼を言いつつ、弦太郎を見て、一瞬たじろいだ。
「……ダウン症なんだ」響子が、響子の父の様子を目の当たりにして、静かに伝えた。
「障害があるの?」響子の父が、一歩引いた。
「何か文句でも?」部下が、響子の父に凄んだ。部下は、響子の彼氏が、障害児であることを誇りに思っていた。
「お母さん……」響子は、頼りになる部下に感銘を受けた。
「いや、文句なんて……娘をお願いします」響子の父が、弦太郎に声をかけた。
「はい」弦太郎が、ゆっくり返事をした。
「これから、家族で、食事に行くんだ。弦太郎くんも来る?」響子が、弦太郎を誘った。
「いや……」
「行こうよ!」
「……うん」
響子の家族と弦太郎が、日本料理店で夕食を食べた。
「日本料理が恋しかったよ」響子の父が、満足そうに日本酒を口に含んだ。
「あまり飲み過ぎないでよ」部下が、釘を刺した。
「響子、海外で揉まれてみないか?」響子の父が、提案した。
「あ~、良いねぇ」響子が、乗り気だった。
「行こうよ」
「そうね……」響子が、弦太郎を一瞥した。
「良い経験になるから、行って来なよ。僕は待っているから」弦太郎は、響子のためを思って、優しく告げた。
「ありがとう。じゃ、行くわ!」響子が、響子の父と一緒に海外に行くことになった。
「修行してくるね」響子が、目を輝かせて言った。
「帰国を首を長くして待っているよ」弦太郎が、微笑んだ。
♪
後日、響子が、響子の父に連れられて、海外に旅立つことになった。弦太郎が、最寄り駅まで、見送りに行った。
「それじゃ、しばしのお別れね」響子が、弦太郎に声をかけた。
「お元気で」弦太郎が、響子の無事を祈った。
そして、響子が、旅立った。
その数日後、弦太郎が、インターネット・ラジオを楽しみに聴いていた。響子も、パーソナリティとして、出演していたのだ。
「日本には、素晴らしい演奏をする調律師がいるんです」響子の声が弾んだ。
「ああ、妻の先輩だね。昔、国際大会に出場したのを知っている。素晴らしい演奏だった。多くのピアニストに好影響を与えたよ。調律師になって、また演奏に磨きがかかったね」響子の父も、弦太郎の父の感想を述べた。
「その息子さんが、彼氏なんですよ!」
「素晴らしい男の子でした」
「ありがとう」響子が、響子の父に素直にお礼を言った。
「では、演奏を始めようか」
「はい」
響子と弦太郎のセッションが、金曜日の音楽室に響いた。
「弦太郎くん、跳ねるようにピアノを弾いている」アナが、音楽室の様子を見て微笑んだ。
「本当だね」カズも、弦太郎の様子を見て喜んだ。
ハムスターが死んだ。
「お別れなんて、嫌だよぅ!」泣きじゃくる生物部の部員。
「さ、それでも、最後のお別れをしなさい」カズの母が、部員に声をかけた。
「たくさんの思い出をありがとう」部員が、総出で、ハムスターのお葬式をあげた。
数週間後、弦太郎の卒業式の日になった。卒業式の終盤、体育館で、合唱が披露された。ピアノを弾くのは、在校生代表のアナだった。
「よし! 間に合った!」響子が、日本に戻って来て、一目散に卒業式会場に足を運んだ。
「響子!」弦太郎が、響子に気付いた。
卒業式の後、響子が、弦太郎の元へ行った。
「卒業おめでとう」響子が、声をかけた。
「ありがとう……」弦太郎が、感極まって、涙を流した。
「泣くなよぅ」響子が、笑った。
「ごめんごめん」
「ハッハハハハ」
「段々、障害児者の性格が分かって来たわ」響子が、ほのぼのと言った。
「あら、障害児者にも、色々いるわ」アナが、心外といった様子。
「そうだぞ~」カズも、響子に意見した。
「こういう奴とかね」アナが、カズの背中に人差し指を刺した。
「痛いなぁ」カズが、身をよじらせた。
「ハッハハハハ」
春になって、弦太郎が、調律師の専門学校に通うことになった。
ほのぼの調律センターは、子供たちの活躍もあり、一気に立て直しに成功した。特に、障害児者のお客さんには、絶大な信頼を得て、調律の仕事がひっきりなしに舞い込んだ。
「良かった」先輩が、安堵した。
「子供たちに感謝ですね」部下も、喜んだ。
「ひとまず、安心だな」カズの父が、アナの父に声をかけた。
「ああ……」アナの父が、微笑んだ。
♪
市内のスポーツ施設で、市民運動会が、開催された。アナ、カズ、弦太郎、響子が、家族とともに参加した。悪田も、参戦していた。
「あの子たち、障害児だよ」悪田が、またも偏見をして来た。
「また言ってる!」響子が、いきり立った。
「良いよ、響子。気にしない気にしな~い」アナが、響子を諌めた。
運動会が、開幕した。
子供たちが、借り物競走に参加した。
「弦太郎くんも、響子も、楽しそうね」アナが、微笑んだ。
「僕も楽しい」カズが、口を挟んだ。
「この際、カズのことはいいんだよ」アナが、つれない返事。
四人の親が、子供たちの活躍を目の当たりにしていた。
「カズは、運動の方が向いているのかもな」アナの父が、しみじみと言った。
「あいつ、ピアノやるって聞かないんだ。どうしてだろう?」カズの父が、思案した。
「お父さんの背中を……追っているのかも知れませんね」部下が、答えを出した。
「責任重大だ」カズの父が、お茶目に言った。
「ハッハハハハ」
「真剣に考えてやれよ」アナの父が、真剣に言った。
「合点」カズの父が、気を引き締めた。
市民運動会の最後に、四人の親が、リレーを走った。
四人とも、結構速かった。
一位だった。
「こんにちは。障害児の父です。そこんとこよろしく~」カズの父が、軽快にスピーチをした。
「ハッハハハハ」アナの父が、大きく笑った。
「何言ってるんだよ~」カズが、恥ずかしがった。
「なんか嬉しい」アナは、カズの父のコメントが、気に入った。
アナの父が、市民運動会の後に、
「久しぶりに運動した~」
と、清々しそうにしていた。
「やっぱり体動かす方が、向いているかなー」カズの父が、しみじみと言った。
「元も子もないことを言うな」アナの父が、突っ込みを入れた。
「ハッハハハハ」
♪
先輩と部下が、先のコンクールで優勝したお客さんの家へ調律に行った。
「ワインありがとうございました。社員の家族と堪能させていただきました」先輩が、ワインの差し入れのお礼を言った。
「とても美味しかったです」部下も、感想を添えた。
「喜んでいただけて、光栄です」お客さんが、喜んだ。
「これが、優勝トロフィーですか!」部下が、優勝トロフィーを見て、興奮した。
「おかげさまで」お客さんが、部下にお礼を言った。
「いえいえ」部下が、恐縮した。
「今回の調律では、電子チューナーを使おうと思いますが、よろしいでしょうか?」先輩が、お客さんの許可を求めた。
「ああ、お任せします」お客さんは、先輩を信頼していた。
「自分でやってみるかい?」先輩が、部下に聞いた。
「……はい」部下が、緊張した。こうして、お客さんのピアノを調律するのは、初めてだった。
「彼女、当社一の電子チューナーの使い手ですから」先輩が、部下を持ち上げた。
「それはそれは、期待していますよ」お客さんが、微笑んだ。
「あ、はい。当社一……」部下が、照れ臭そうに調律を始めた。
部下は、時間はかかったものの、無事、調律を終えた。
「うん。上出来ですね」お客さんが、ピアノの感触を確かめるようにして、満足してくれた。
「それじゃ、引き上げようか」先輩が、部下に声をかけた。
「はい」部下が、仕事道具を片付けた。
先輩と部下が、帰途に就いた。
「前の話、正式にお断りするよ」先輩が、交際の話を断った。
「そうですか……」部下が、残念そうに俯いた。
翌日、アナの父と部下が、ほのぼの調律センターで、仕事をしていた。
「先輩、君のこと、期待しているって言っていたよ」アナの父が、部下に優しく告げた。先輩は、部下を慰めようと、アナの父に頼んで、部下を励ましてくれた。
「ありがとうございます、と伝えてください」部下は、状況をよくわきまえていた。
後日、部下が、弦太郎の母のお見舞いに行った。
「早く良くなってください」部下が、弦太郎の母に告げた。
「ありがとう」弦太郎の母が、にっこり微笑んだ。
「素晴らしいご主人と息子さんですね」部下が、弦太郎の母に声をかけた。
「はい。自慢の家族です」弦太郎の母が、嬉しそうに答えた。
「調律師たちのピアノコンクール、実現すると良いですね」部下が、少し話題に事欠いた。
「主人ね……昔は、有望なピアニストだったの……優しい演奏をする人だった。ピアノコンクールでも、何度も優勝していて……でもね、国際大会に出た時に、変わった。色んな国の人が集まるでしょう。その中に、途上国のピアニストが何人かいて……その演奏に衝撃を受けたの。荒々しく、鬼気迫るような演奏……ほら、向こうは、生活が懸かっているでしょう」
「はい……」
「それに負けちゃったのね……その国際大会が終わって、帰国して、トロフィーを全部処分しちゃったの。もう弾くものかって……」弦太郎の母が、昔を思い出して、切々と語った。
「そんなことが……?」部下は、返す言葉がなかった。
「でもね、弦太郎に救われた。あの子が、私たちの元へ舞い降りてくれたの」弦太郎の母が、懐かしそうに微笑んだ。
「まさに天使ですね」部下が、嬉しそうに言った。
「ダウン症だと分かって、主人は、ピアニストを辞めるって……」弦太郎の母が、少し残念そうに呟いた。
「それで、ピアニストを……」部下は、先輩がピアニストを断念した理由を聞いて、言葉にならなかった。
「でも、前向きだったのね。ピアノには、携わりたかったから、結局、調律師の道に進んだ。将来、弦太郎をピアニストにして、調律をして支えるんだって……でも、弦太郎も、調律師を目指して……」
「弦太郎くんの気持ちも分かりますけどね」部下が、素直な気持ちを吐露した。
「うん。主人も、弦太郎の気持ちは、よく分かっているみたい。あれで、結構喜んでいるのよ」弦太郎の母が、微笑んだ。
「素直じゃないとこありますよね」部下が、少しお茶目に言った。
「ハッハハハハ」
「私が入院した時に、弦太郎が、コンクールで優勝してくれたの。ビデオで見たんだけど、弦太郎、ステージ上で、泣きながら演奏していた。主人も、客席で涙を流していたわ。その時、確信したの。ああ、私たち家族は、ピアノでつながっているんだって……だから、あの二人は、満足しているのね。調律をすることで……」弦太郎の母が、満足そうに一つ息を吐いた。
「のろけですか~」部下が、嬉しそうに突っ込んだ。
「ハッハハハハ」
「主人、毎日、弦太郎の優勝トロフィーを拭き掃除しているの」
「毎日ですか?」
「今日も、弦太郎が、健康でいられますようにって……一種の願掛けね」弦太郎の母が、窓の外を見つめた。
「そんな……」部下が、言葉を失った。
「そのおかげで、家族が一つになれているんだけどね」弦太郎の母が、にっこりと微笑んだ。
弦太郎の母は、部下に、どうしてお見舞いに来たかとは、聞くことはなかった。部下の様子を見れば、一目瞭然だった。全てを理解したうえで、至極冷静に対応した。家族への信頼感が、それを可能にさせた。
6
二年後、念願の調律師たちのピアノコンクールが開催されることになった。アナ、カズ、響子が、ポスター作りなどに大忙しだった。
「やっと実現したね」響子が、アナの労を労った。
「本当にありがとうね」アナが、響子らにお礼を言った。
「いよいよだ~」カズが、大きな声で叫んだ。
調律師たちのピアノコンクールには、アナの父、カズの父、部下、それに新米調律師の弦太郎が、出場することになった。弦太郎は、専門学校を卒業した後、調律師になって、ほのぼの調律センターで働いていた。
「先輩、今回は出場されないんですか?」アナの父が、先輩に聞いた。
「弦太郎の指導に専念するよ。それが、僕の生き甲斐だから」先輩が、仕事をしながら、満足そうに答えた。
「そうですね」アナの父も、爽快な気持ちだった。
「それに、調律師たちのピアノコンクールのピアノの調律を頼まれるんだから、光栄なことだよ」先輩が、ピアノコンクールのピアノの調律を拝命していた。
アナは、自宅でアナの父とピアノコンクールに向けて練習をしていた。
「アナの頑張りに報いなきゃ、バチが当たるよ」アナの父が、ピアノコンクールを実現したアナにお礼をした。
「バチなんて当たらないよ」アナが、真顔で答えた。アナは、時々知らない言葉に遭遇した。
「例えだよ、例え」アナの父が、笑った。
「何だ、例えか!」アナが、理解した。
「ハッハハハハ」
カズは、自宅でカズの父のピアノの指導をしていた。
「お父さん、カーブを投げるように鍵盤を叩くんだ」カズが、アドバイスした。
「ど、どんなんなんだ?」カズの父が、思わず吃った。
「こうして……」カズが、ピアノの実演をした。
「カズ、上手くなったよな~」カズの父が、惚れ惚れとした。
「だろう」カズも、満足そうだった。
「ハッハハハハ」
響子も、自宅で部下のピアノを見ていた。
「お母さん、また音外した!」響子が、厳しく指導した。
「厳しくされるのって、結構辛いね」部下が、音を上げた。
「今頃気付いたの?」響子が、キツく言った。
「優しくして~」部下が、響子に頼んだ。
「甘えてもダメ!」響子が、キッパリと否定した。
「とほほ……」部下が、渋々演奏を続けた。
弦太郎の家では、先輩が、弦太郎にピアノの演奏を教えていた。
「無理しなくて良いからな」先輩は、弦太郎の心臓が心配だった。
「せっかくこんなコンクールを開催してくれたんだ。恩返ししないと」弦太郎は、殊勝な考えを持っていた。
「そうだな」先輩も、弦太郎の気持ちをよく理解していた。
♪
アナの父、カズの父、部下、弦太郎は、夜遅くまで、ほのぼの調律センターの二階で、練習することもあった。
「差し入れで~す」アナが、元気よく二階へ上がった。アナ、カズ、響子が、カズの自宅で、夜食を作って、ほのぼの調律センターに差し入れに行ったのだ。
「ありがたいなぁ」カズの父が、お礼を言った。
アナの父、カズの父、部下、弦太郎、先輩が、大歓迎してくれた。
「カズのお母さんにも手伝ってもらったの」アナが、調律師たちに告げた。
「じゃ、不味いな」カズの父が、冗談を言った。
「あ~、そんなこと言って良いんですか~? ちゃんと伝えときますから」アナが、カズの父に詰め寄った。
「嘘嘘!」カズの父が、大慌て。
「ハッハハハハ」
みんなで、楽しく夜食を食べた。
しばしの歓談。
「音楽セラピーって、ダウン症児者にも、効くんですか?」響子が、カズの父に尋ねた。
「障害全般に良い効果があるよ」カズの父が、珍しく真摯に答えた。
「教えてください」響子が、カズの父に頼んだ。
「良いよ~、演奏、上手くないけど」カズの父が、謙遜した。
「知ってます」響子が、間髪入れずに答えた。
「コラ~」カズの父が、嬉しそうに突っ込んだ。
「ハッハハハハ」
「じゃ、お願いします」響子が、ピアノの鍵盤に指を置いた。
「音楽セラピーというのは、障害の調律、つまりチューニングなんだ」カズの父が、響子に音楽セラピーを教え始めた。
「なるほど」響子が、それを学んだ。
そうして、二人は、しばらくの間、音楽セラピーの練習をしていた。
「じゃ、弾いてみなよ」カズの父が、響子に促した。
「はい……」響子が、ピアノで音楽セラピーを始めた。とても癒される音色だった。
「ラララ~!」カズの父が、歌い出した。
「びっくりした~! いきなり歌い出すなよ」アナの父が、突っ込みを入れた。
「ハッハハハハ」
「歌うと、さらに効果があるの」カズの父が、歌い続けた。
「ホントかよ?」アナの父が、半信半疑。
「さあ、皆さんもご一緒に!」カズの父が、みんなに促した。
「……ラララ~」みんなも、歌い出した。
「マジかよ」アナの父も、遅れて歌い出した。
「ハッハハハハ」笑顔が、絶えなかった。
みんなで肩を組んで歌い合った。
響子の演奏が終わって、みんなが歌い終わった。
「ああ、気持ち良かった」カズの父が、満足げ。
「確かに気持ちが楽になったわ。ピアノにも、色々な使い道があるのね」アナが、感心した。
「ありがとう、良い気分転換になったよ」弦太郎が、響子にお礼を言った。
「それほどでも」響子が、照れ臭そうに笑った。
「さ、後は、若い二人にして……」カズの父が、弦太郎と響子を二人きりにさせようとした。
「いやー、止めてくださいよ~」響子が、照れ臭そうに笑った。
「ハッハハハハ」
調律師たちのピアノコンクールの前日、アナの父、カズの父、先輩、部下、弦太郎が、最後の仕上げをしていた。
「緊張して来ました」部下が、武者震いした。
「心地良い緊張感ですね」先輩も、感無量といった様子。
「先輩も、緊張していますか?」
「ええ、自分の出場よりも」
「弦太郎くん、責任重大ね」
「はい……」
「ハッハハハハ」
「子供たちに感謝ですね」アナの父が、満面の笑み。
「本当だね」カズの父も、珍しく真顔でしんみりとした。
♪
調律師たちのピアノコンクールの当日を迎えた。会場は、県民ホールで、ステージ上には、一台のピアノとオーケストラが、鎮座していた。観客は二百人ほどだった。参加者は、三十名だった。
アナとカズが、会場の前方の席に並んで座って、演奏を聴くことにした。響子は、会場の後方の席に座った。先輩も、端の方の席に座った。
開会の挨拶などがあり、早速演奏が始まった。
アナの父が、出番を迎えた。
「少しでもアナの足しになれば……」アナの父の演奏に熱が入った。
「そうか、薬指がないから、これはお父さんの音なんだ。誰にも真似のできない個性なんだ。障害なんて塞ぎ込んでいないで、前に出てみれば良いんだ……」アナは、アナの父の意図するところにようやく辿り着いた。
続いて、カズの父が、演奏を始めた。
「なんだか、しっとりとしていて気持ちの良い曲だね」アナが、感想を漏らした。
「多分、音楽セラピーの影響だと思う」カズが、答えた。
「なるほど」アナが、納得した。
カズの父は、前半は、音楽セラピーを演奏に生かしていたが、途中から巨人の星の「ゆけゆけ飛雄馬」の弾き語りをおっ始めた。
「あーあ、歌い出しちゃったよ」アナの父が、呆れて口をぽかんと開けた。
「ピアノコンクールで歌う人、初めて見た」アナも、呆れた。
「これも、音楽セラピーの影響だと思う」カズが、説明して、カズの父の演奏に引き込まれていった。
「……」アナは、返す言葉がなかった。
カズの父の弾き語りが終わった。
「カズ、ど根性、見せてくれ!」カズの父が、最後に叫んだ。
「ハッハハハハ」会場は、爆笑の渦だった。
「お父さ~ん! お父さ~ん!」カズは、涙ながらにカズの父に声援を送った。カズの父のメッセージは、カズの心には届いていたのだ。
「この親子……」アナが、他人のフリをした。
しばらくして、部下の演奏になった。
「これまで学んだことを全て出し尽くす!」部下が、気合を入れまくった。
部下の演奏は、ピリピリしてしまっていた。部下も、それを自認していたので、しかめっ面になってしまった。
「あ~、お母さん、空回りしちゃってる」響子が、部下の心配をした。
最後に、弦太郎の出番になった。
「弦太郎、無理するなよ」先輩が、客席で祈った。
「不思議な演奏をするのね」アナが、弦太郎の演奏を聴いて、感想を漏らした。弦太郎の演奏は、力みのない澄んだ演奏だった。
しかし、途中、弦太郎が、苦悶の表情を浮かべた。心臓が苦しそうだった。
「やはり、弦太郎にコンクールは、無理だったか……?」先輩が、席を立って、ステージの方に歩み出した。中断させるつもりだった。
「大丈夫かしら、弦太郎……」響子も、ステージに近付いた。
その時、弦太郎が、二人をチラリと見やった。
そして、弦太郎の口が、「大丈夫だから」と、動いた。
それから、ピアノの演奏は、より元気よく伸びやかに跳ぶように響いた。まるで、ピアノの音色で、先輩と響子を安心させるように。
そして、演奏は、無事終了した。
弦太郎が、観客に頭を下げた。
先輩と響子が、目を合わせて、微笑んだ。
全ての演奏が終了して、授賞式が始まった。
優勝したのは、弦太郎だった。
審査委員長が、ステージ上で、
「聞いたことのない音がした。調律師ならではの感性があった。ピアノという楽器に対する熟知と、ピアニストを断念した悲哀があった。両方とも、現役のピアニストにはないが、調律師として働くことで身に付くもの。さらに、弦太郎さんには、障害者としての独特な感性もあった」
と、総評を述べた。
「ピアニストを断念した悲哀じゃない。偉大な父の後ろ姿を追った情熱だ」アナが、小さく呟いた。
「プロのピアニストにチャレンジする気はありませんか?」審査委員長が、優勝トロフィーを渡しながら、弦太郎に問うた。
「調律師も、十分輝かしい職業です。父のような調律師になりたいんです」弦太郎が、胸を張った。
「弦太郎……」先輩が、思わず涙ぐむ。
「主体性、ある~」カズが、惚れ惚れとした。
「やったぜ!」カズの父が、またブービー賞をとった。
こうして、調律師たちのピアノコンクールは、無事終演した。ここで披露されたのは、まさに調律師にしかできないピアノ演奏だった。勝っても負けても、調律師たちの瞳は輝いていた。調律師たちの人生は、日の目を見たのだ。
授賞式の後、アナ、カズ、響子、先輩が、家族の元へ集まった。
「みんな、お疲れさまでした。素晴らしい演奏だったわ!」アナが、四人の調律師に声をかけた。
「素晴らしかったでしょう」カズの父が、得意げに笑った。
「お前は、あんまり凄くないんだよ」アナの父が、突っ込みを入れた。
「ハッハハハハ」
「いや、素晴らしかった」カズが、真剣に言葉をかけた。
「流石、カズ! 分かるか!」カズの父が、カズの頭を撫でた。
「お父さん、これ、みんなで作ったんだ」アナが、アナの父にお守りを渡した。
「はい、どうぞ」カズも、カズの父にお守りを渡した。
「はい」響子も、部下にお守りを差し出した。
「僕は、お父さんに」弦太郎は、先輩にお守りを渡した。
「普通お守りって、コンクールの前に渡さないかい?」アナの父が、不思議そうに突っ込んだ。
「これは、コンクールのために作ったんじゃない。今までの感謝のため、それから、これからの頑張りの証としてのお守りなの」アナが、解説した。
「……よく分からんが?」アナの父が、困惑気味。
「だ~から、この良き日に、お守りに念を封じ込めたの」アナが、少し怒った。
「なるほど。今日、このお守りは、念が込められて、完成したという訳ですね?」先輩が、アナのフォローをした。
「流石!」アナが、喜んだ。
「そういうことか……ありがとう」アナの父が、納得して、お守りを握りしめた。
「嬉しいわ」部下も、嬉しそうにお守りを見つめた。
「お父さんの娘で良かった……!」アナが、アナの父に抱きついた。
「……嬉しいな」アナの父が、感無量といった様子。
カズ、響子、弦太郎も、親に感謝した。
四人とその家族は、こうして、朗らかな時間を共有できた。全ては、調律師たちのピアノコンクールのおかげだった。
それから、四人は、家族とともに、集まって談笑した。
「誰だ、ブービー賞なんて作ったの?」アナの父が、追求した。
「アナです!」カズが、すぐさま答えた。
「ごめんなさ~い」アナが、楽しそうに謝った。
「ハッハハハハ」
「アナちゃん、大金星だよ!」カズの父が、アナにお礼を言った。
「しかし、よくあれでビリじゃなかったな」アナの父が、カズの父の演奏をけなした。
「本当に、お前がビリなんじゃないか?」カズの父が、アナの父に噛み付いた。
「ちげーよ!」アナの父が、それを否定した。
「ハッハハハハ」
「私、調律師になる」コンクールを終えて、アナが、宣言した。
「僕も」カズも、続いた。
「相変わらず、主体性がないな~」アナが、突っ込んだ。
「ハッハハハハ」
「悔しい……」部下が、響子の前で、涙を流した。
「お母さん……私は、プロのピアニストを目指すわ。音楽をやっていれば、家族が一つになれるから」響子が、力強く言った。
「うんうん……いつまでも、響子を支える」部下が、響子の双肩を両手で挟んだ。
「弦太郎、素晴らしい演奏だったぞ」先輩が、弦太郎の労を労った。
「久しぶりのコンクールだったから、緊張しちゃった」弦太郎が、屈託のない笑顔を見せた。
「弦太郎のコンクールでの優勝確率、凄く高いね!」響子が、嬉しそうに声をかけた。弦太郎の母が入院した時も、優勝していた。
「ありがとう。ピアノコンクールに出られて、本当に幸せ」弦太郎が、照れ臭そうに微笑んだ。
その時、弦太郎が、
「ぐっ!」
と、その場に倒れこんだ。
「どうしたの!」響子が、弦太郎の体を支えた。
「きっと心臓発作よ!」アナが、すぐに答えた。
「救急車呼んで来るわ!」部下が、受付に走った。
「弦太郎、しっかりして!」響子が、弦太郎を介抱した。
しかし、弦太郎の意識が、どんどん薄れて行った。
「今度は、私が、弦太郎を助けるの!」アナは、かつて弦太郎に命を救われたことを忘れていなかった。
しばらくして、会場の上空で、「バタバタバタ」と、轟音がした。
ドクターヘリが到着した。
ヘリから医師が降りて来た。
「来たわよ」アナの母だった。
アナの母が、弦太郎の状態を確かめた。
「お母さん! 大丈夫なの?」アナが、大きな声で聞いた。
「最善を尽くす」アナの母が、短く答えた。アナの母は、甘い慰めなど口にしなかった。
一言で言えば、予断を許さない状態だった。
弦太郎が、ドクターヘリに乗せられて、病院へ搬送された。
先輩、アナ、アナの父、響子、部下が、タクシーに乗って、病院へ急いだ。
タクシーの中で、先輩が、
「きっと大丈夫」
と、自分に言い聞かせるように呟いた。
「何の気休めにもならないかも知れませんが、アナのダウン症も、妻の研究も、先輩と弦太郎くんとの出会いも。全ては、この日のためにあったんだと思います……必ず助けてくれる。だって、僕の妻なんだから!」アナの父が、感極まった。
「信じていますよ」先輩が、呟いた。
五人が、病院の手術室の前に着いた。
ほどなくして、弦太郎の母が、「貴方……祈りに来ました」と、車椅子に乗って、やって来た。同じ病院に入院していたので、連絡を受けて、すぐに駆け付けたのだ。
「ああ、来てくれたか。大丈夫……大丈夫だから」先輩が、弦太郎の母の手を握って、安心させようとした。しかし、その声は、少し震えていた。
「弦太郎……」響子は、泣きじゃくっていた。
数時間して、手術中のランプが消えた。
アナの母が、手術室から出て来た。
「お母さん!」アナが、声をかけた。
「手術は成功。根治しました」アナの母が、胸を張った。アナの母は、最先端の研究により、不可能だった弦太郎の心臓の根治手術に成功した。
「ありがとうございます!」先輩と弦太郎の母が、深々と頭を下げた。二人とも、安堵して、涙を流していた。
「お母さん、ありがとう」アナが、アナの母にお礼を述べた。
「アナのためでもあるからね」アナの母は、アナが心臓発作を起こしても、救う準備をしていた。
「うん。今までごめんね」アナが、申し訳なさそうに謝った。
「何が?」アナの母が、きょとんとした。アナが謝る理由が見当たらなかった。
「家にいないこととか、文句言って……親不孝で」
「そんなことないよ。元気でいてくれるだけで十分。本当に親孝行な娘だよ。アナ、大好き」アナの母が、アナをしっかりと抱いた。
「私も」アナが、アナの母の腕の中で、嬉しそうに呟いた。
数時間後、弦太郎が、目を覚まして、弦太郎の母に、
「お母さん……優勝したよ」
と、報告した。
「うんうん。良くやったね」弦太郎の母が、弦太郎の頭を撫でた。
「お母さんも、早く良くなって……」
「ありがとう。自分の心配をしなさい」弦太郎の母が、感極まって、涙を流した。
♪
弦太郎が、ほのぼの調律センターに就職して、初めて調律を一人で担当することになった。
「これが、お客様の名前と住所だよ」先輩が、弦太郎に一枚の受注書を渡した。
「お父さん、これは……?」弦太郎が、それを見て動揺した。
お客さんは、あの悪田だった。
「行って来なさい」先輩が、弦太郎を促した。
弦太郎が、悪田の家に行って、調律を始めた。
「弦太郎くんは、お父さんに愛されているんですね」Rチューニング株式会社の社長が、弦太郎に話しかけた。
「いえ……ダウン症だから、手がかかるんだと思います」弦太郎が、調律をしながら、真摯に答えた。
「引き抜きをね、しようとしていたんです」社長が、ゆっくりと語った。
「え?」
「弦太郎くんのお父さんを……しかし、はじめに一つだけ条件を提示されました。将来、弦太郎くんを雇ってくれ、と」社長が、丁寧に言葉を紡いだ。
「……」弦太郎が、固まった。
「お断りしました。それからも、交渉は続けていたんですが、決裂しました」社長が、ことの顛末を隠さず伝えた。
「お父さんは、もしその条件を飲んでくださったら、御社に移ろうとしていたんですか?」弦太郎が、確信を突いた。
「対等合併が前提でしたから」社長が、説明した。あの時期、ほのぼの調律センターは、火の車だった。
「それで……」弦太郎が、納得した。
「今じゃ、ほのぼの調律センターも、立派になりましたからね。今では、後悔しています」社長が、口惜しそうに伝えた。
「そうですか……」弦太郎が、合いの手を入れた。
「君を雇わなかったことをね」社長が、ズバリ言い放った。
「はい?」
「逃した魚は大きかった。だってそうでしょう。こんな立派な調律をするんですから」社長が、弦太郎の調律したピアノを弾いた。
「……」弦太郎が、口をつぐんだ。
「素晴らしい音です。参りました」社長が、笑って、お礼を言った。
「ありがとうございます」弦太郎が、頭を下げた。
翌日、アナの父が、Rチューニング株式会社に移籍した。アナの父は、朝食の時間に、それをアナに伝えた。
「なんで……なんでよ、お父さん!」アナが、アナの父を責めた。
「仕方のないことなんだ」アナの父は、多くを語らなかった。
「もう口も聞きたくない!」アナが、アナの父と絶交した。
アナが、支援学校に行って、アナの父のことをカズに話した。
「そうか……アナのお父さんが、移籍か」カズは、何やら考え事をしていた。
「酷くない?」アナが、同意を求めた。
「きっと何か理由があるんだよ」カズは、意外にも冷静だった。
後日、カズが、弦太郎の家へ行った。
その翌日、アナが、支援学校で、カズに会った。
「昨日、弦太郎くんの家に行ったでしょう?」アナが、目ざとく見つけていた。
「ああ、調律を教えてもらっていたんだ」カズが、顔色を変えずに答えた。
「本格的に調律師を目指すの?」アナが、カズに聞いた。
「そういうこと」カズの目は、真剣だった。
♪
弦太郎と響子が、結婚式を挙げた。
結婚式に続けて、結婚披露宴が、催された。
弦太郎の母が、一時退院して、参列してくれた。アナとカズ、アナの父母、カズの父母も、会場にいた。
「許さないから!」アナは、アナの父と言葉を交わさなかった。
「……」カズが、アナを寂しそうに見やった。
結婚披露宴が、開宴した。
まずは、主賓の挨拶。
弦太郎が、一人前の調律師になって、響子が、ピアニスト兼ラジオのパーソナリティとして、活躍していることが報告された。
結婚披露宴の序盤、アナとカズが、ピアノ演奏を披露した。
躍動感のある、素晴らしい演奏だった。
「ありがとう」響子が、お礼を言った。
結婚披露宴の終盤、弦太郎の母が、すくっと立ち上がり、響子の元へ歩み出た。
「私も、弾いて良いかしら?」弦太郎の母が、おっとりと聞いた。
「もちろんです」響子が、答えた。
弦太郎の母が、ピアノの方へ歩いて行って、ピアノ演奏を始めた。
会場が、し~んと静まり返った。
「な、何これ……」響子が、言葉を失った。
とんでもない演奏だった。演奏中に曲のイメージに入り込んで、力むピアニストは多い。しかし、弦太郎の母には、全く力みがなかった。しなやかで、繊細で、おしとやかな演奏だった。音が、聴こえて来るのではない。沁みて来るのだ。少なくとも、響子は、そんなピアノ演奏を初めて体感した。
「この演奏は……弦太郎くんの……」アナが、それに気付いた。
それは、弦太郎の演奏の源流のような雰囲気を醸し出していた。弦太郎は、弦太郎の母の演奏に影響を受けていたのだ。
「響子さん。これが、弦太郎の魂ですよ」先輩が、響子の元へ行って、声をかけた。弦太郎の母は、弦太郎がお腹の中にいる時から、ピアノ演奏を聞かせていた。だから、弦太郎の演奏は、自然と弦太郎の母に近付いていたのだ。
「はい……」響子が、涙を流して、頭を下げた。
「それに、この曲って……?」アナが、疑問に思った。弦太郎の母の演奏した曲は、アナの知らない曲だった。それは、おっとりしていて、それでいて、芯の強い、まさに弦太郎と響子のためにあるような曲だった。
弦太郎の母の演奏が終わった。
結婚披露宴会場の参列者は、圧倒されるというよりは、体全体から、力が抜けた。気持ち良い脱力感を味わった。
「お母さん、今の曲は?」弦太郎が、弦太郎の母に尋ねた。会場の誰もが、それを聞きたかった。
「オリジナル曲よ。弦太郎の結婚式の日に弾こうと思ってね。入院した時から、ずっと作曲していたの」弦太郎の母が、自信を持って答えた。
「入院した時から、ずっと?」弦太郎が、思わず聞き返した。弦太郎の母は、もう何年間も、入院生活をしていた。
「励みになったわ。お母さんの生命線よ。響子さんも、お母さんのイメージ通りの方だったから」弦太郎の母が、微笑んだ。この曲を弦太郎の結婚式で弾くことを夢見たおかげで、弦太郎の母は、無事回復したと言っても良いほどだった。
「ありがとう……」弦太郎が、その重みを感じて、お礼を述べた。
「……」響子は、言葉の出ないまま、弦太郎の母に頭を下げた。
その後、部下が、先輩に、
「前に教えて頂いた、『自分で考えること』とは……?」
と、質問した。ずっと気になっていたのだ。
「ああ、響子さんは、今、まさに自分で考えていますよ」先輩が、それとなく答えた。
弦太郎の母は、響子のためにピアノを弾いていたのだ。
「あ、そういうこと……ですか。またしても、恐れ入ります!」部下が、それに気付いた。
「期待していますよ」先輩が、微笑んだ。
「ありがとうございます!」部下は、先輩に頭が上がらなかった。
結婚披露宴の最後、弦太郎と響子が、来賓への挨拶の代わりに、ピアノを演奏した。
響子は、早速、弦太郎の母の演奏に影響を受けて、力みがなくなっていた。この辺り、一言で言えば、天才だった。
「この二人、どこまで表現力が豊かになるの?」アナが、驚きを隠せなかった。
結婚披露宴が、終わった。
アナとカズは、帰り道に並んで歩いていた。
「私たちも、結婚しようか?」アナが、勇気を出して言った。
「そうだね」カズが、快く返事を返した。
「結婚式までにピアノ練習しといてよね。恥かきたくないから」アナが、恥ずかしさを紛らわすように、憎まれ口を叩いた。
「恥って何だよ」カズが、突っ込みを入れた。
「ハッハハハハ」
7
先の調律師たちのピアノコンクールが、大きなうねりとなって、世界中の調律師の集まるピアノコンクールに発展した。その第一回世界調律師たちのピアノコンクールには、アナ、カズ、弦太郎が、参加することになった。
このコンクールには、世界中のピアニストや調律師が、協力してくれた。その中に、先輩のことを知る人物が、数人含まれていた。先輩が、国際大会に出た時の途上国のピアニストたちだった。今は、立派なピアニストや調律師になって、国をリードしていた。彼らの尽力なくして、世界調律師たちのピアノコンクールは、実現しなかった。
また、響子の父の尽力も忘れてはならない。彼は、ラジオを通して、世界中のリスナーにこの世界調律師たちのピアノコンクールの開催を呼びかけていた。
その前日、アナは、アナの父と母と一緒に夕食を食べていた。
「お父さんにも、色々事情がおありなのよ」アナの母が、二人の仲を取り持った。
「……」アナも、アナの父も、何も答えなかった。二人は、このところずっとそんな状態だった。
「一緒に夕食を食べてるだけましだと思って」アナが、ぽつりと言った。
「食欲はあるのね」アナの母が、控え目に言葉を発した。
「アナ、お父さんの肉じゃが、食べて良いぞ」アナの父が、アナに皿を差し出した。
「……お父さんのもらって」アナが、アナの母の肉じゃがを食べた。
「素直じゃないんだから」アナの母が、アナの父の肉じゃがの皿をとった。
「絶対に許さないから」アナが、力を込めた。
「……」アナの父は、何も言い返せなかった。
カズの家族は、三人で、カラオケボックスに行った。
「今日は、歌うぞ~」カズの父が、上機嫌だった。自宅で、一杯ひっかけて来たのだ。
「明日のこともあるから、そんなに長居はしませんからね」カズの母が、釘を刺した。
「僕とお父さんが、歌うから、お母さんは、聞いてるだけで良いよ」カズが、提案した。
「そうは行かないわ」カズの母も、歌いたくて仕方がなかった。
「さあ、歌うぞ!」カズの父が、気合を入れた。
結局、三人は、肩を揃えて、夜遅くまで歌いまくった。
弦太郎の家族は、自宅で、ヘルシーな夕食を食べていた。弦太郎の母が、退院して、腕によりをかけて作ったのだ。
「やっぱりお母さんの手料理が、一番!」弦太郎が、夕食を頬張った。
「まあ、嬉しいわ。いっぱい食べてね。明日は、晴れ舞台なんですから」弦太郎の母の笑顔が光った。
「本当に美味しいね」先輩が、しみじみと呟いて、少し涙を見せた。
「泣かないでくださいな」弦太郎の母が、微笑んだ。
「お父さんは、めっきり涙もろくなったんだ」弦太郎が、笑った。
「ハッハハハハ」
三人は、夕食後、ピアノの前で、並んで座った。
「さあ、景気づけに、三人でセッションをしよう!」先輩が、嬉しそうに号令をかけた。
「三人で弾くなんて、何年ぶりだろう」弦太郎が、ワクワクしていた。
「さあ、弾きましょう」弦太郎の母が、声をかけた。
三人が、並んでピアノを演奏した。先輩が低音を弾き、弦太郎が真ん中で弾き、弦太郎の母が高音を弾いた。三者三様の素晴らしい音色だった。
「良い音だ……」先輩が、感無量になって、また涙を見せた。
「また泣く~」弦太郎が、嬉しそうに突っ込んだ。
「ハッハハハハ」三人が、嬉しそうに笑った。
四月四日、ピアノ調律の日。第一回世界調律師たちのピアノコンクールは、開催された。会場は、県民ホールで、ステージ上には、ピアノと一流のオーケストラ。観客は満員御礼の千人だった。参加者は、三十名。
その参加者の中に、アナ、カズ、弦太郎の姿があった。
アナの父、カズの父、先輩、部下は、子供たちのために出場を見送った。
「子供たちに活躍して欲しいから」部下が、嬉しそうに声を出した。
「若い力に期待ですね」先輩も、呟いた。
「本気でやっても、負けそうですからね」カズの父が、本音を語った。
「ハッハハハハ」
「僕も参加させてもらうよ」控え室には、悪田の姿もあった。悪田も、調律師になって、Rチューニング株式会社で働いていたのだ。
「負けないわよ~」アナが、悪田に笑いかけた。
「……今まで、済まなかった。調律師になって、初めて、分かった。障害のことが」
「ど、どういうこと?」
「アナ、カズ、弦太郎の調律って、すごいじゃん。とても、僕には真似できない。それだけの結果を出すには、ものすごい努力がいると思うんだ。その精神力みたいなのを実感した」
「褒め過ぎ」アナが、悪田に突っ込んだ。
「ハッハハハハ」
「本当に……ありがとう。気付かせてくれて」悪田は、目に少し涙を浮かべていた。
「良いってことよ」
「それじゃ、頑張ろうな」
悪田が、控え室から出て行った。
「悪田、変わったね」アナが、しみじみと呟いた。それは、間違いなく、アナ、カズ、弦太郎らの努力の成果だった。
「こうして、コツコツ味方を増やしていくんだ」弦太郎も、感慨無量。
「なあ、みんな……なんのために調律師になった?」カズが、アナと弦太郎に問うた。
「……結局、家族のためかな」アナが、答えた。
「同じく」弦太郎も、同じ気持ちだった。
「じゃ、なんのためにコンクールに参加した?」カズが、続けて質問した。
「……家族のためだな」アナが、答えた。
「そうだね」弦太郎も、同じように答えた。
「そうだね。家族のため、友のためだね」カズが、答えを出した。
「……そうだね。友のためでもあったね」アナが、恥ずかしそうに笑った。
「うん」弦太郎も、カズの意見に賛同した。
「みんなに支えられて今がある。恩返ししよう!」カズが、アナと弦太郎を鼓舞した。
「おう!」アナと弦太郎が、それに倣った。
「みんな、準備はオッケー?」響子が、控え室に顔を出した。
「オッケーオッケー、もう一二〇%の実力出ちゃっている」アナが、嬉しそうに答えた。
「後で、出して」響子が、冷静に突っ込んだ。
「ハッハハハハ」
「響子も、落ち着けよ」カズが、響子に突っ込みを入れた。響子が、一番ふわふわしている様子だった。
「緊張しちゃってるわ……さあ、いよいよね。これまで支えてくれた家族に良いところ見せなくちゃね」響子が、三人を鼓舞した。
「プレッシャーをかけるなよ」アナが、陽気に突っ込んだ。
「アナ、カズ、弦太郎……立派な調律師になったね。それが、何よりの恩返しだよ」響子が、感極まった。
「響子も、立派なピアニストになってね」アナも、感傷的になっていた。
「もうなっているわ」響子が、お茶目に返事をした。
「ハッハハハハ」
「それじゃ、客席から見ているから」響子が、控え室から出て行った。
「さ、頑張ろうか」アナが、カズと弦太郎に声をかけた。
会場には、それぞれの家族が、聴きに来ていた。その中に、弦太郎の母の姿もあった。
まずは、悪田の演奏。
「ピアノは友だ」悪田は、以前のように、力任せに鍵盤を叩くことはしなかった。それは、調律師としての経験だった。ピアノを大切にする、素晴らしい調律師になった。
演奏が終わった。
「一流の調律師になった」響子が、大きな拍手を送った。
アナの演奏の番になった。
アナは、無心だった。ただ黙々と、ピアノに対峙していた。それは、ある意味で、達観していたようなものだった。とても優雅で、しかし、力強かった。トラウマは、もう完全に消え去っていた。そして、アナは、いつの間にか、アナの父の言うところの生きる術も身に付けていた。
「これで良いんだ」アナの父が、客席で微笑んだ。
アナは、演奏の途中、左手の薬指の鍵盤をあえて弾かない演出を試みた。不思議な演奏になったが、観客は、大いに沸いた。観客も、前のコンクールで、弦が切れてしまった時のことを覚えていたのだ。そして、それは、アナから、アナの父への恩返しのメッセージでもあった。しかし、アナは、まだアナの父を許していなかった。
カズの演奏が始まった。
序盤は、音楽セラピーのような癒しの演奏だった。
しかし、その後、カズが、感極まって、
「ラララ~!」
と、弾き語りを始めた。
「やっちゃった……」響子が、呆れた。
「いいぞ、カズ! 乗ってる!」カズの父だけは、真剣に応援していた。
弦太郎の演奏になった。
「お母さん、聴いてくれ」弦太郎が、願いを込めた。
弦太郎の演奏は、とても落ち着いていて、聴衆の心を癒してくれた。
「綺麗な音ね」弦太郎の母は、念願の弦太郎の晴れ舞台を見ることができて、満足していた。
授賞式が始まった。
アナ、カズ、弦太郎は、家族の元へ行って、受賞を楽しみにしていた。
優勝者は、アナだった。
あんなにピアノを上手く弾けなかったアナが、優勝した。そこには、カズ、響子、弦太郎らの友情、そして、家族の絆が、確かにあった。それこそが、原動力で、こんなにも成長した。みんなの目には、光るものがあった。
「支援学校の発表会で、一オクターブ間違えた人とは思えない」カズが、お茶目に言った。
「おいコラ!」アナが、カズに突っ込みを入れた。
「ハッハハハハ」
「元々、アナが作ったコンクールだから」カズが、真面目な口調で、諸手を挙げて喜んだ。
「薬指抜きで優勝しちゃうんだから、やっぱり、アナって天才だわ」響子が、改めて、アナの実力を認めた。
「だね」カズも、異論はなかった。
アナの父が、客席で、
「アナ、良くやった」
と、感無量。
「曽祖父さんのおかげね。アナがダウン症だと分かって以来、毎日のように、胎教のピアノ演奏をしてくれたから。あれが、アナの中で、今、花開いたんだわ。そういえば、あの演奏も、素晴らしかったわ。こう、心に響くというか……」アナの母も、目に涙を浮かべて喜んだ。
「ああ、偉大な調律師のピアノ演奏だった」
「障害って……人生を豊かにするわね」
「調律師って、表舞台に出る職業じゃないって、正直思っていた。でも、アナたちが、それを変えてくれた。障害も同じなのかもしれない。障害児者が、表舞台に出るなんて、信じられなかったけど、時代を変えてくれたんだ。僕らは、今、その瞬間に立ち会っている」
「感動ね……貴方の薬指が、そうさせたんだと思います」アナの母の目から、大粒の涙が溢れた。
「上出来」弦太郎は、聴衆賞をとった。いつぞやのピアノコンクールで、先輩がとった賞だった。
「お父さん、一緒の賞とったよ!」カズは、ブービー賞をとった。
「流石、僕の息子だ!」カズの父が、カズと熱い抱擁を交わした。
「友のためっていうのも良いけど、親は子供のために弾き、子供は親のために弾く。だとすれば、あの親子ほど、絆の深い親子はいないのかもね」響子が、カズとカズの父を見ながら、のんびりと発言した。
アナは、響子の言葉には、返事もしないで、ツカツカとカズの元へ向かった。
「カズ、ブービー賞、狙ってたんじゃないか?」アナが、カズに詰め寄った。
「想像にお任せするよ」カズは、これまで幾度も、本気を出して来なかった。もちろん優勝が望ましいだろう。しかし、家族のため、友のためには、ブービー賞が最善だと判断したのだ。カズは、確かにブービー賞を狙っていた。それは、アナのためでもあった。カズは、いつもアナの勝利を切望していた。アナの優勝を第一に考えて来ていた。アナは、そうして、カズにも見守られて生きて来た。アナは、その感謝の気持ちを忘れなかった。
「バッカ野郎!」アナが、嬉しそうにカズの頭を叩いた。
「痛!」カズが、思わずよろけた。
「ハッハハハハ」
「カッコつけてんじゃないわよ!」アナが、カズを一喝した。
「アナ、結婚しよう」カズが、プロポーズした。
「……はい」アナが、それを受け入れた。
「なんで?」響子が、ずっこけた。
「ハッハハハハ」
「アナ、良くやったね。そういえば、お祖父ちゃんが言っていたな……『調律師にしかできないピアノ演奏があるはずだ』って……お祖父ちゃん、喜んでいるだろうな」アナの父が、呟いた。
アナが、県民ホールの駐車場に続く通路に走った。
「お父さん、優勝したから」アナが、アナの父に言葉をかけた。
「おめでとう」アナの父が、ゆっくりと去って行く。
「ちょっと待ってください。お父さん」カズが、アナの父を引き留めた。
「カズ……?」アナが、カズの様子がおかしいことに気付いた。
「僕は知っていますよ。どうして、移籍なんかしたのか」カズが、重い口を開いた。
「カズくん、良いんだ」アナの父が、少し動揺した。
「どういうこと、カズ?」アナが、カズに問うた。
「アナのお父さんは、悪田を一流の調律師に育てるために、そして、この世界調律師たちのピアノコンクールを実現するために、さらに、アナを強くするために、Rチューニングに行ったんだ」カズは、弦太郎の家に行って、弦太郎から話を聞いたりして、ことの真相を導き出していた。
「どんな理由があれ、許さない」アナは、それでも、頑固だった。
「アナ、アナのお父さんは、僕に結婚指輪を託したんだ」カズが、アナに告げた。
「結婚指輪を……?」アナが、怪訝そうに聞き返した。
「あの時すでに、こうなることを予期していたんじゃないんですか? だから、僕にアナのことを……」カズが、アナの父に聞いた。
「……」アナの父は、何も答えなかった。
「現に、悪田は一流の調律師になって、世界調律師たちのピアノコンクールは実現し、アナは強くなった……もう良いじゃないですか」カズが、アナの父に言葉を投げかけた。
「僕が行かなきゃ、ほのぼの調律センターはバラバラなんだ」アナの父は、早くから先輩の移籍話のことも勘付いていた。だから、自分を犠牲にして、全てを守った。実際、ほのぼの調律センターが、息を吹き返したのは、アナの父が移籍することを条件に、Rチューニング株式会社が、エリア内の営業から手を引いたことが、主因だった。アナの父が、移籍しなかったら、ほのぼの調律センターは、つぶれていたのだ。
「パチパチパチパチ……」Rチューニング株式会社の社長が、拍手をしながら現れた。
「社長……」アナの父が、動揺した。
「もう十分です。ほのぼの調律センターにお戻りください。ライバル会社ではありますが、ともに高め合って行きましょう」社長が、優しく微笑んだ。
「良いんですか?」アナの父が、驚いて聞き返した。
「私も鬼じゃない。でも、これからは、息子が、ビシビシ攻めますからね~」社長が、明るく言った。
「ありがとうございます!」アナの父が、頭を下げた。
「アナちゃん、良い彼氏を見つけたね」社長が、アナにも声をかけた。
「それは……」アナが、返事に窮した。
「息子には、手を引くように伝えておく」
「え……?」
「好きだったんだよ、アナちゃんのこと」悪田は、アナのことが好きで、偏見をしてしまっていたのだ。
「まさか……」アナが、言い淀んだ。
「それじゃ」社長が、立ち去って行った。
アナ、カズ、アナの父が、しばらく、社長の後姿を見つめていた。
「……こうしちゃいられない。玉の輿だ~!」アナが、社長の後を追った。
「待て~!」アナの父とカズが、アナの後を追った。
♪
アナとカズは、一緒に仕事をすることが多かった。まだ独り立ちしていないこともあったし、切磋琢磨する意味もあった。
アナとカズが、お客さんの自宅で、ピアノの調律をした。
「調律が終わりました」カズが、お客さんに声をかけた。
「ありがとう。一曲弾いてくださる?」
「もちろん。二人でセッションしましょうか?」アナが、嬉しそうに申し出た。
「そんなことができるの?」
「調律師ですから」アナが、自信を持って、答えた。
アナとカズが、二人でピアノを弾いた。
「素晴らしい演奏だわ」お客さんが、惚れ惚れした。
「ありがとうございます」アナとカズが、胸を張った。
♪
アナとカズの結婚式と結婚披露宴が、開催された。二人の両親、響子の家族、弦太郎の家族、それに悪田の家族らが、参列してくれた。
結婚式が、滞りなく終わって、結婚披露宴が、始まった。
主賓が、
「カズとアナは、幼稚園の時からの悪友で……お互い好きなくせして、それを言い出せませんでした。それでも、弦太郎くんと響子さんの結婚を機に、一緒になることを誓い合いました。二人は、結局、調律師として、立派に成長しました。今は、ほのぼの調律センターの急先鋒として、立派な戦力になっています。若い二人をこれからも、よろしくお願いします」
と、アナとカズの紹介をした。
「アナ~、尻に敷いてやれ!」アナとカズの友人が、二人を茶化した。
「もうぺちゃんこよ」アナが、得意げな顔をした。
「ハッハハハハ」
「カズ、アナ……結婚、おめでとう。色々迷惑をかけたね。心から祝福いたします……」悪田が、スピーチを始めたが、途中から、嗚咽に変わった。悪田は、心から、アナとカズに感謝の意を表して、二人の幸せを願った。そこには、もはや障害に対する偏見など微塵もなかった。
「悪田も、早く結婚しなさい!」響子が、茶々を入れた。
「ハッハハハハ」会場が、笑いに包まれた。
「一緒に、調律の未来を築いて行こう」悪田が、泣き笑い。
結婚披露宴の終盤、アナとカズのピアノ演奏の時間になった。
「これから、新郎新婦のピアノ演奏ですが、少々お待ちください」司会者が、参列者に申し出た。
「どうされました?」アナが、困惑した様子で、司会者に問うた。
「サプライズがあるようです」司会者が、嬉しそうに答えた。
その直後、結婚披露宴の会場のドアが開いて、続々と楽器を持った人々が、入って来た。
「何だ何だ」参列者が、驚いた。
「Rチューニング株式会社の社長様からのオーケストラの差し入れです!」司会者が、大きな声で、会場に伝えた。社長が、アナとカズのために、オーケストラを手配してくれていたのだ。
「ありがとうございます」カズが、社長に頭を下げた。
「これに恥じない演奏をしてくださいね」社長が、ハッパをかけた。
「ハッハハハハ」参列者が、大きく笑った。
オーケストラが、セッティングを完了した。
アナとカズが、ピアノに向かった。
「それでは……」アナが、カズと息を合わせた。
二人の演奏が始まった。
伸びやかで、とても綺麗な演奏だった。
「アナは、相変わらず上手いけど、カズって、あんなに上手かったんだ~」参列者が、驚いた。カズは、コンクールで、ブービー賞を狙っていた時とは、まるで違う演奏をしていた。
「私に恥をかかせないどころか、私が、恥をかくくらいだわ……」アナも、演奏をしながら、カズのピアノに聞き惚れた。
演奏が終わった。
「パチパチパチパチ」結婚披露宴会場が、満場の拍手に包まれた。
アナとカズが、満足そうに見つめ合った。
結婚披露宴の最後になった。
カズが、結婚披露宴会場のドアの前に立って、
「今、僕の左手の薬指には、アナのお父さんから譲り受けた結婚指輪があります。アナのお父さんの左手の薬指。その透明な指に嵌められるはずだった指輪。この指輪の重みをひしひしと感じています。これからの人生を賭して、この指輪を、アナよりも大事にしていきます!」
と、言い放った。
「おい! 違うだろ!」アナが、即座に突っ込みを入れた。
「ハッハハハハ」参列者が、最後も笑顔になった。
こうして、誰よりもみんなの笑顔が好きなアナとカズの結婚披露宴は、幕を閉じた。
♪
響子が、体調を崩して、病院の内科を受診した。
響子は、色々な検査を受けて、医師の診察室に入って行った。
「おめでたですね」医師が、開口一番、嬉しそうに告げた。
「ほ、本当ですか!」響子が、喜び勇んだ。
その晩、響子は、浮かれて、赤飯を炊いた。
「ただいま~」弦太郎が、帰宅した。
「今日は、赤飯。どうしてだ~?」響子が、弦太郎にクイズを出した。
「安売りだったから!」弦太郎が、必死に考えて答えを出した。
「ロマンがないなぁ……できたの」
「何が?」弦太郎が、きょとんとした。
「赤ちゃんです!」響子が、業を煮やした。
「ほ、本当に!」
「はい」
「……健常かい?」弦太郎は、真っ先に障害のことを気にした。
「あら、健常でも障害でも、立派に産み育てて見せるわ」響子が、キッパリと言い放った。
「検査を受けよう」弦太郎が、言い出した。
「その必要はないわ」
「いや、障害があったら、万全の態勢で産みたいから。僕だって、障害児を育てる自信はあるんだ」弦太郎が、真摯に言った。
「そうね……検査を受けるわ」響子も、納得した。
数週間後、響子が、新型出生前診断を受けた。
一週間後、弦太郎と響子が、結果を聞きに行った。
「お子さんは、ダウン症の疑いがあります」医師が、淡々と告知した。
「合併症は?」弦太郎が、質問した。弦太郎は、心臓病に悩まされ続けて来た。
「心臓病の可能性があります」
「産みます」響子が、しっかりとした口調で言った。
「そうだね。お願いします。先生」弦太郎も、覚悟を決めていた。
数ヶ月後、響子が、ダウン症の男児を産んだ。
弦太郎と響子が、アナとカズらに赤ちゃんをお披露目することにした。
「どうせなら、お祝いの演奏をしたいね」響子が、提案した。
「二人のセッションをしようか」弦太郎も、乗り気になった。
弦太郎と響子が、育児の傍ら、ピアノ演奏の練習を重ねた。
そうして、お披露目の日になった。
アナとカズ、弦太郎の家族、響子の家族が、弦太郎と響子の家に来てくれた。
「それでは、只今から、息子のお披露目セッションを始めます」響子が、自信満々に挨拶をした。
「では」弦太郎が、響子と息を合わせた。
弦太郎と響子の演奏が始まった。
二人とも、弦太郎の母の演奏の影響を色濃く受けながらも、荒々しい様もある、生命の誕生を表現していた。
「父と母の演奏になったね」先輩が、弦太郎の母に呟いた。
「ええ、どっしりと構えた安定感のある音ね」弦太郎の母が、満足そうに微笑んだ。
「プロのピアニストとプロの調律師のコラボ。二人揃うと、圧巻ね」アナが、カズに耳打ちした。
「ああ、プロのピアニストだけではできないセッションだね。稀有な演奏。調律師、ここにあり、だ。」カズも、感激した。
そして、演奏が、終わった。
みんなが、大きな拍手をした。
「素晴らしい演奏だったわ」部下が、感心した。
「調律が良いのよ」響子が、珍しく謙遜した。
「それほどでも」弦太郎も、同じように謙遜した。
「どんな子に育てたいの?」響子の父が、二人に聞いた。
「将来は、立派な調律師に育てます」響子が、即答した。
「ピアニストでも良い」弦太郎が、続けて答えた。
「あら、断然調律師よ。調律の英才教育のために、ずっと胎教を聞かせて来たんだから」響子が、喧嘩腰。
「君の後を継がせるんだ」弦太郎も、負けていなかった。
「まあまあ、調律師にして、調律師たちのピアノコンクールに出場すれば良い」アナが、最後にまとめた。
「あ、それ良いね!」みんなが、納得した。
了
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